月の向こうの地下世界

秘密の場所というのは、氷をまとった沢を遡った所にある、水源の泉のことだった。影の網がその周囲だけ綻びて、ぽっかりと大きく空が見えていた。遮るもののない光の中心で、今も辛うじて凍らない湧水が滾々と白い砂をかき混ぜていた。リンがその空間に足を踏み入れると、髪の色のせいか、月明かりが増したように見えた。いつの間にか中天を過ぎ、夜明けに傾きつつある月が、この広場めがけて降ってこようとするようだった。

波がやって来ると、そこでは確かに面白いほど良く採れた。タムの下手な振り方でもアミがたっぷり膨らむほどだ。リンの方は採れた月光がアミから溢れて、流星のように尾を引くくらいだった。二人は夢中でアミを振り、目を見交わしてはお互いの成果ににんまりした。

秘密の場所での一回目の波がおさまって、タムが最後の成果をベルトに結んでいた時、リンが急に自分のアミを置いてタムの方へやって来た。そしてタムが何かとぼんやりしているうちに、ひょいとタムの帽子をむしって逃げた。タムの手は一歩間に合わず、音がするほどの冷気が彼の耳を襲う。

「寒い!リン、返してよ」

タムは自分もアミを置いてリンを追いかけた。リンは大きな樫の木の陰に隠れて、タムが左へ回ろうとすれば右へ、右へ回ろうとすれば左へ逃げ、迷って止まった隙に別の木へ走って行った。

リンにしてみれば、次の波が来るまでの退屈しのぎと、暖を取るためのちょっとした悪戯のつもりだった。隠れていた木の陰から出て、タムの姿を探した時、リンは凍りついた。タムはリンと泉のちょうど中間あたりにいた。そしてリンに背を向けて、木の向こうにいるリンではない何かを捕まえようとしていた。

リンがタムの名を叫ぶのと、タムがそれを捕まえるのが同時だった。

タムはリンを振り向かなかった。ただ、自分が捕まえてしまったものの正体に気がついて、手を離し、よろめくように一歩後ずさった。ヨーゲの毛むくじゃらな腕が木の陰から伸びてきた。続いて分厚い肩が、それからのっそりと、化け物がその姿を現した。腕だけでタムの身長ほどもある。肉の盛り上がった背中をまるめた、大きな顔に大きな目、しわのよった獅子鼻の醜い生き物。リンが教えたとおりに逃げようとするには、タムはヨーゲに近すぎた。

タムは、泉からもリンからも離れる方向に走り出そうとした。しかし急な動きが神経を逆なでしたのか、ヨーゲは機敏に反応した。骨の棍棒がタムの膝を捉えて、タムは殆ど吹き飛ばされるように横様に倒れた。ヨーゲはのしのしとそれを追いかけ、腕を掴んで無造作に持ち上げると、タムが暴れるのを物ともせずに小脇に抱えた。

タムがわざとリンのいない方へ走ろうとしたのは、リンにも分かった。ヨーゲ相手にリン一人でなど立ち向かえないということも。去年は四人がかりで助け合って、それでも一人連れて行かれたのだ。リンは負けず嫌いではあるけれど、そのために現実を忘れ去るほど愚かではなかった。

「タム……」

ヨーゲはタムを抱えたまま泉の方へ歩いていた。木の枝の影が彼らに次々と網の目をかぶせるように見えた。タムは、諦めたのか、ぐったりしている。リンは胸の底が掻き毟られるような気分を味わった。タムの諦めが、リンの何かに火をつけた。

「タムを放せ!」

リンは腹に力をこめて思い切り叫んだ。その声はただの音ではなく、聞いたもの全てを震わせる力だった。木がじんじんと震えて、枝に積もっていた雪が次々に落ちてきた。泉に足を踏み入れていたヨーゲは驚いてよろめき、タムを泉に取り落とした。

リンはタムを助けに走った。ヨーゲが再びタムを拾い上げようとしていて、タムがその腕を避け損なっている。その周囲で、泉の水がぎらぎらと光り始めた。まるで雫自体が月光でできているかのように。

「来ちゃダメだ!」

ヨーゲに両腕をむんずと掴まれながら、タムがリンに向かって叫んだ。その隙にヨーゲが彼を肩に担ぎ上げて足を踏み出す。その一歩で、ヨーゲは膝まで泉に沈んだ。さっきまでは、せいぜいリンの膝までしかなかった浅い泉だった。それを見たリンは一瞬、水際で躊躇した。ヨーゲはわずかな怯みもなく、タムもろとも沈んでいく。

「タム!」

リンは意を決して水に飛び込んだ。一歩ごとに足元が崩れるような感触があり、リンもあっという間に腰まで沈んだ。けれどヨーゲの方がずっと速い。

「リン、ダメだ、君は……!」

タムが必死に叫ぶのを聞きながら、リンはぎゅっと目をつぶって自分から水の中にもぐった。水の中は目を開けていられないほど眩しかった。燃えている月晶ランプを覗き込んでいるようなものだ。そして、想像した以上に広い。リンは目をつぶって、とにかく前へ水を掻いた。

いくらもいかないうちに、水の中でかすかに獣の咆哮のような振動を感じた気がした。リンは懸命に前を見る。光の中、随分遠くで、ヨーゲと思える影がうごめく。激しくもみあっているようだ。それ以上は目を開けていられず、リンは目をつぶった。すると、幕が下りるように、暗闇がまぶたと一緒に降りてきた。

ヨーゲはタムを捕えたまま、《月の向こう》の岸辺に顔を出した。そこは地下にある船着場で、天然の地下水道に手を入れたものだった。木を組んで作った簡素な桟橋があり、その根元はやや開けていて、上から石の階段が降りてきている。ヨーゲはぐったりしているタムを桟橋の上に乗せ、自分もよじのぼって激しく身震いをした。水が弧を描きながらあたりに飛び散る。

桟橋の元には、少女が一人立っていた。タムと同じ年頃で、懐かしい夕日のような橙色のスカートが目に鮮やかだ。少女は水が跳ねかかるのを無視して二人の方へ近寄ると、物怖じもせずヨーゲに手を伸ばした。彼女の掌がヨーゲの腕に触れると、ヨーゲは見る間に縮んでいき、捻じ曲がった樫の流木に姿を変えてしまった。

少女は魔法を失った流木を水路に投げ込んで、タムの傍らにしゃがんだ。青白い頬に張り付いていた髪をよけてやっても、タムは目を閉じたままぴくりとも動かなかった。肩をゆすっても反応はない。少女は少しの間、手をタムの口元にかざしていた。それから自分の膝に腕を回して考えるような様子を見せ、やがて興味を無くしたように立ち上がってその場を去って行った。