タムは十回もアミを振って、ようやく初めての月光を採った。それもあまりに少しなので、リンが慌てて止めなければまた失敗と思ってみすみすアミを上げるところだった。鋭い口笛に驚いて目を上げると、リンと目が合った。
「タム、それ、採れてるよ」
リンが自分のアミを置いてタムの方へ急ぎ足にやって来る。スーガもだ。タムは金縛りにあったように固まって、じっと自分のアミの先を見つめた。言われて見ればかすかに、ごくかすかに、膨らみがある。スーガが腰を屈めてそれを確かめ、タムに笑いかけた。
「……開けて見な、たぶん結晶化しないくらいの量だ」
タムはそれまでの悔しさの分だけ、心臓が震えるような興奮を味わった。アミの柄を雪の上に下ろして一歩足を踏み出し、うやうやしく先端の輪をめくり上げる。
ふっと息を吐くほどの間のことだった。アミの内側に青白い仄かな光があり、タムの視線に触れた瞬間から、逃げるように消えていった。雪に反射する月光の方がどんなにか眩しいかもしれない。けれど、それはタムが初めて採った光だった。
「いい光だ。タムはいい月光採りになるよ」
スーガが大きく頷いて請け合った。タムはこらえきれない嬉しさでにっこりと微笑んだ。課せられた使命というだけではなく、もっとこの光を採りたい、それを手元に持っておきたいという気持ちが彼の中に芽生えていた。
「おーい、スーガかあ?音が混ざるだろうが、もうちょっと静かにしてくれや」
と、斜面の上のあたりにいた家族から声が降ってきた。
「ああー、悪い悪い」
スーガが手を上げて応えると、相手も手を振り返した。月光は採った時の音や、光や、熱や匂いを吸収しながら凝固する。木瓶に入れてそれらを遮断するまでは、扱いに細心の注意が必要なのだ。
それから一時間ほどの間にタムはなんとか一つ自分の月光を手に入れて、木瓶の使い方を教わった。これはそれほど難しくない。光を逃がさないようにアミの口をぎゅっと絞って、栓を抜いた木瓶の口を添えてから放す。リンなどは歯ですばやく栓を抜くが、スーガはタムに慣れるまでやめておけと注意した。
その頃にはスーガはもう五つ、リンは四つの木瓶を使っていた。タムは栓をした木瓶をベルトにひっかけ、さっそくアミを構えなおした。
「まだだな」
それを見て、スーガが言った。次の波までは間がある、という意味だ。それを聞いたタムが構え方のことと勘違いしてアミを持ち替えたのを見て、リンがくすりと笑った。
「次の波まで少しあるってことだよ。満ち干きがあるから。ねえ父さん、ヒューリゴーたちを探しに行っていい?たぶん樫の原の方にいると思うんだ」
リンが何気なく尋ねると、スーガは少し考えたものの、まあ良いだろう、と答えた。
「大人の目のないところへ行くなよ」
「分かってる。行こう、タム」
何気なく言って目配せしてきたリンの目が、きらりと不穏に光ったのをタムは見た。
「あ」
自分のアミを拾い上げようとしたリンが、かがみかけた姿勢で手を止めた。そしてタムを振り向き、手招きをする。タムは自分のアミを持ったまま呼ばれるままに近寄った。
雪の上に伏せられたリンのアミは、小さな月光が採れたときのようにわずかに膨らんでいた。違うのは、それが内側から突くように動いているということだ。リンが意味ありげに口の端をゆがめて、すばやく袋の部分をワシ掴みにした。中にいた何かが「ぎゃっ」と叫んだので、タムはぎょっとして目を丸くした。リンはそのままアミをひっくり返して、中のものを月明かりにさらした。
鳥のような嘴のある小さな頭がまず見えた。不気味なのは、白目があるぎょろぎょろした二つの目だ。リンが持ち替えて全体を見えるようにすると、三本指の手足が四本あって、トンボに似た透明な羽を二対持ったおかしな生き物なのが分かった。大きさは片手でも握りつぶせるくらいで、羽がほのかに黄緑色の光を放っている。
「夜光虫だ。タム、見てみなよ」
リンがそういって夜光虫をタムの方へ差し出した。タムはいらない、と言うように首を横に振って一歩後ずさった。
「やあやあ、お前はタムじゃないか」
甲高い声で夜光虫が喋った。タムの引きつった顔を見てリンが声を殺して笑う。夜光虫が彼の声を横取りしたように甲高く笑った。
「喋ると思わなかったでしょ?」
「リン、夜光虫で遊ぶんじゃない。それだって丘の下のものだぞ」
スーガの厳しい声がして、リンは慌てて夜光虫を放した。夜光虫はちょっとふらついて落ちるかに見えたが、寸前で持ち直して空へ上っていき、ふっと見えなくなった。それを見送ってから、リンが言う。
「もしアミに入ったら、すぐ放した方がいいよ。付きまとわれると厄介なんだ。光るし喋るから、採れる月光の質も落ちるし。あること無いこといろいろ言うから面白いんだけどね」
タムは賛同も否定もしかねたような曖昧な微笑みを浮かべる。リンは景気づけにアミを振り上げ、「さあ、行こう」と言って歩き出した。
スーガや村人の姿が見えなくなると、案の定、リンは歩く方向を変えた。
「リン、樫の原へ行くんじゃないの?」
答えを知りつつ、タムが尋ねる。リンは淀みない足取りで進み続けながら答えた。
「樫の原に行ったって、ダメさ。見ただろ、父さんのアミ」
「アミ?」
「同じ波を採ったって、父さんと俺じゃアミに入る量がぜんぜん違うんだ。なんたって向こうは三十年もアミを振ってるんだから。俺はその十分の一。タムなんか、その俺の三分の一。普通にやったら村で一番の月光なんて採れるわけない」
タムは一瞬、苦々しい顔でうつむいた。滑りやすい足元をものともしないリンの後ろ姿に問いつくような眼差しを向ける。彼が見ている間に、リンは、房の付いた帽子を取った。手袋もはずして、一緒にベルトに挟みこむ。そして、三つ編みにした髪を留めているピンを次々と抜いた。太い三つ編みがくるりと弧を描いて背中に落ちる。それもほどいて、二、三度指を通してから頭を振ると、彼の白い髪は光を流したように腰までを覆った。
「でも、最初からできない約束をしたつもりなんかないよ。森の中に、うちのじいさんの秘密の場所があるんだ。じいさんがそのアミで、祠にある《晶王》の元を採った場所さ」
リンが振り返る。鼻と頬が寒さで赤くなっていても、地上の人間には見えなかった。家族や親しい人たちが密かに、いつか丘の下から迎えが来るのではないかと恐れているのも良く分かる姿だ。照らし出された夜空のような青い目が試すような眼差しをタムに向ける。
「あそこならチャンスがある」
「なら、行こう」
タムは真っ直ぐに応え、リンの横に並んだ。
「へえ、止めるかと思った」
「だって、それ以外に方法がないのに行かないなんて選択肢がある?」
リンがタムと歩調を合わせて歩きながら言う。タムは心外だというように目を丸くした。
「タムっていつもはイイ子だからさ」
「今、馬鹿にした?」
「ううん?」
揶揄するような口ぶりにタムが渋面を作ってみせると、リンは軽く笑いながら彼から目を逸らした。
一月ほど前にふらりと村にやって来たこのよそ者を、リンは他の遊び仲間と同じくらい好きになっていた。ひょっとすると、よくよく比べたら他の遊び仲間よりも好きかもしれなかった。こうして髪を解いているリンを、タムは気にしない。タムがそうして気遣いでも虚勢でもなく平然としていてくれると、いつまでも色の付いた髪が生えないのも、他の仲間が年とともに失っていく力をリンが持ち続けているのも、大したことではないと思えるのだ。
リンは前を見て、道を求めた。二人の行く手には、冬枯れの雑木林が広がっている。入り口の辺りには、どこかへ行ってしまったウサギの足跡がさびしげに残されていた。裸の枝の影が、まだ柔らかい雪の肌の上にくっきりと、クモの巣のような模様を作っていた。その間を縫うように、リンの目には道が見えた。その先は雑木林のさらに奥、だれも入ろうとは思わない森の中の秘密の場所に続いている。