月の向こうの地下世界

瞼をとじていたのは、ほんのわずかのことだ。リンが目を明けると、あたりは真っ暗だった。本当に、地下の月光蔵のように暗い。

あいかわらず水の中で、何も見えず、どちらが上かも分からない。その恐怖にリンは悲鳴を上げそうになった。

うっかり開けた口の中に容赦なく水が入って、反射的に飲み込んでしまう。咳き込んだら、水しか吸うものがない。

空気が欲しいのに。

手足をもがいて、死ぬしかない運命と初めてまともに目を合わせた。

と、いきなり襟首を掴まれて、首が絞まるような勢いで引っ張られた。意識がなくなる寸前で頭が水面に出る。目に飛び込んできた何かのヘリを手が勝手に掴み、リンは必死にそれに縋って咳き込んだ。

どうやったのか分からないが、とにかく足が硬い場所に着いていた。

「お前さんは、人の家の水がめで何をしておいでだね?」

やっとまともに息ができるようになった頃、頭の上から声がして、リンははっとして顔を上げた。

目の前には、キツネとオオカミのあいの子のような奇妙な動物の頭部を被った人物が立っていた。空気が足りなくて自分の頭がおかしくなったのかと思ったけれど、そうではない。そして確かに、リンはその人物に襟首をつかまれて、大きな水がめの中に首まで浸かっていたのだった。

「え?」

リンは顔に張り付いた白い髪を手でかきやって、目をしばたいた。

よく見えるようになっても、やはり目の前にいる人の頭は獣のそれだった。それも、鼻面の毛が薄くなったような年老いた様子だ。

その奇妙な人物が、不意にリンの襟首をつかんでいた手を放した。リンは足場を失うのではないかと恐れてかめのふちにすがりつく。獣頭の人は、笑うように鼻を鳴らした。

鼻づらが動いたので、リンはぎょっとする。剥製をかぶっているのなら、動くはずがない。首のあたりで毛皮が人間の皮膚と繋がっているように見えたのは、気のせいではないのだ。

と、『それ』が少し後ろに下がったおかげで、全身が見えるようになった。

頭は獣だが、首から下はほぼ人間だった。ただ、人間にしてはずいぶんと毛深い。特に二の腕から先と脛から下は、皮膚が見えないくらい密な灰色の毛でおおわれている。やせた体はほとんど裸と言って良く、銀の首飾りや腕輪の他は素朴な腰巻一枚の姿だ。そしてあばら骨の浮き出た胸から腹のあたりには、しなびた乳房が六つ並んでいた。

「酷いドジもいたもんだ、こんな所に水路をつなぐなんて。おかげで飲み水が台無しじゃないか」

キツネにしては短く、オオカミにしては細い口が動いた。それを見てリンは言葉を失う。心のどこかでは、かぶり物だと思いたかったのだ。

驚いているリンを急かすように、その生き物が腕組みをして言い放った。

「いつまでそこに入ってる気だい?気に入ったんなら住んでもいいが、家賃を取るよ」

リンは慌てて水がめの底を蹴る。けれど、ふちが自分の胸より高いので、一度で超えるのは難しかった。上半身をかめのふちに乗せるようにして、脚を引っ張り上げようとする。ぽたぽたと髪の先から水が滴った。

「お待ち。お前さん、まさか濡れたまま出てくるつもりじゃないだろうね?」

鋭くキツネオオカミ――リンは心の中で、そう呼ぶことに決めた――が制する。

「だって、濡れてるんだもの」

わけがわからずリンは目をしばたく。キツネオオカミが首を横に振って溜息をついた。

「なるほどね、あんたがそんなとこから出てきた理由がよぅく分かった。ちょっとそこで待っておいで。家中に水をまかれたんじゃたまらないよ」

キツネオオカミはそういうと、ぶつぶつ言いながら部屋を出て行った。リンはおとなしく水がめの中に戻る。その瞬間、かめがぐらりと動いた。

リンがふちに体重をかけたせいで、傾いていたのだ。

なぜ倒れなかったのかは、分からない。

すこし落ち着いたリンがあたりを見回すと、そこがどうやら洞窟の中のようだと分かった。食糧庫なのか、天井から魚の燻製や香草の束がつりさげられ、壁際には大小の陶器のかめがずらりと並んでいる。明かりはたった一つの出入り口から入ってきているだけで、室内は色の見分けが難しいくらい薄暗かった。

出入り口に戸はなく、きらきらと光る糸で編まれたのれんがかかっている。その下から、細い廊下であるらしい石の床が見えていた。

タムの姿は、ない。

手足がしびれるような焦りが、リンの胸を満たした。最後に見えた影は、もみあっているようだったが、タムは逃げただろうか。

結局、キツネオオカミが持ってきたのは踏み台だった。それに自分が乗ってリンの首根っこをつかんで引き上げた。すると、見えない膜を通り抜けるような感覚があって、こし取られたかのように水気が抜け、床に立った時にはリンの服も髪もすっかり乾いていた。

「すごい……」

リンはすっかり元通りの服をぱたぱたと触りながら、思わずつぶやく。そして、自分が《良き人々》の国に来てしまったらしいことを悟った。こんなことは、長老のオッガにもできない。

「まったく、どれだけ不器用なのやら」

キツネオオカミはリンから手を放して一人ごちた。それから不意にヒクりと鼻を動かし、息がリンの頭にかかるほど顔を寄せた。ふんふんと頭や肩のまわりをかぎまわられてリンがたじろぐのも、まったく意に介さないようだ。顔を離して、ひとしきり鼻の中のにおいを飲みほすように天井を見ていたかと思うと、ぽつりとつぶやく。

「……月光の匂いが強すぎて分かりにくいが、少しだけ《宙を泳ぐ魚》の臭いが混じってるね」

リンは何のことか分からず、目をしばたいてキツネオオカミを見上げる。キツネオオカミは少しの間、何かを思い出そうとするようにじっとリンを見ていたが、やがて口を開いた。

「さあ、こっちへ来てもらうよ。この水の償いをどうしてくれるか、話しをしようじゃないか」

そう言って踏み台を持ちあげた動作が、やっとリンの金縛りを解いた。

「あの、先に男の子が来なかった?」

リンは一歩踏み出しながら訪ねる。振り向いたキツネオオカミは、ひょいと肩をすくめて即答した。

「知らないね。うちの水がめから出てきたのはお前さんだけだよ。話しぐらい聞いてやらないでもないが、それより自分の始末をつけることを考えて欲しいね。いいからこっちへおいで」

それほど早口ではなかったにもかかわらず、リンは一言も口を挟めなかった。キツネオオカミは母の説教のような、遮ってはいけないと思わせる喋り方を良く心得ているようだ。 リンは、従うしかなかった。