月の向こうの地下世界

月晶の野には、昔から二つの民が住んでいる。一つは、地上に暮らし、冬と死に属する『丘の上の民』。もう一つは、地下に暮らし、夏と生命に属する『丘の下の民』。二つの民にとって、一方の空が他方の土、自分の昼が相手の夜。隣り合わせの生を互い違いに生きているという。月晶の野に暮らす人々が『丘の下の友』あるいは『良き人々』と呼ぶのは、月と一緒に地下から顔を出し、月と一緒にこの世ならぬ場所へ帰っていく、もう一つの民のことだ。

月の向こうには、豊饒と楽しみと、魔法がある。死はなく、苦しみもなく、その代わり、死と苦しみが教えるものも何一つない。だから『丘の上の人々』は、友と呼びつつ、褒め称えつつ、もう一つの民を怖れている。

「さあ、お食べ」

長老がそう言って松明を差し出した。タムが目を丸くする間に、スーガが手を伸ばし、手袋を外した素手でその火の先っぽを掴んだ。橙色の火の断片が花開くように手のひらで踊り、タムが叫ぶ暇もなく、スーガの口に放り込まれる。スーガがむしゃむしゃと火を咀嚼している間に、リンも同じように松明から一掴みの火をにぎり取って食べてしまった。

さあ、と促すように差し出された火を前にして、タムは一歩後ずさった。松明からは確かな熱を感じるし、触るなんてとても無理に思える。

「タム、それを食べないと朝までに凍えて死んでしまうよ。大丈夫、熱いのは最初だけだ」

スーガが励ますように言う。

「取ってあげるよ」

リンが笑いながら手を伸ばして、松明の先から火をちぎった。それも、自分で食べたよりかなりたっぷりと。タムは口を狙って投げつけてくることを予感して、とっさに顔をかばった。その瞬間、タムのすぐ後ろからリンの声がした。

「タム」

タムが驚いて振り返る。けれど背後には誰もいなかった。はっとして向き直った顔に、待ってましたとばかり、炎を纏ったリンの手が押し付けられた。逃げようとしても時すでに遅く、リンがもう片方の手でタムの頭を押さえていた。

一口食べてしまえば、確かに熱いのは最初だけだった。味は月光酒に似てかすかに甘く、冬の風の香りに、松明のものか、ほのかな木の皮のにおいが混ざっている。それが喉を落ちていくと、体の底に灯が燈ったような温かさがじんわりと湧いてきた。

「これ、リン。みだりにその力を使ってはならん」

長老が渋い顔で叱ると、リンはおどけた仕草で首をすくめてスーガの陰に隠れた。

「そなたはよくよく注意しないと、向こうへ連れて行かれてしまうぞ。その年でまだ髪が白いのは、そなたが向こうの力を使いすぎるからかもしれん」

「気をつけます、長老」

リンはしかつめらしい顔を作って答えた。それが長老の真似だと分かるので、タムは笑いをこらえるのに苦労していると、スーガの拳がかなり勢いよく飛んできて、リンの頭を捉えた。帽子と手袋があると言ってもなかなか良い音がして、リンが抗議の声とともに頭を押さえる。

「まったく、もしもそなたに祭司を継がせることになどなったら、ワシは禿げる心配をせねばならんわ。さあ、行った、行った。良い月光を採って、朝には無事に戻るのだよ」

長老の苦笑いに見送られて、三人はそれぞれのアミを片手に、《月光採り》に繰り出した。

風の音にあわせて、枯れ草が銀の月光をさざめかせる。吹きつける夜気は、見えない氷のつぶが頬をこするように冷たかった。あたりは色が分かるほど明るく、夜の帳を透かして青空が見えるかと思うほどだった。月は全天の星を圧して輝いている。なるほど、これなら採れるだろう。

リンとタムは、とりあえずスーガに従ってまどか丘のふもとのくぼ地にやって来た。北向きの斜面には、最近降った雪がまだ残っている。あたりには数人の村人が彼らと同じようにアミを持って時を計っていた。

「くるっと回して、こう。閉じ込めるように地面につける。月光はなるべく雪の上で採るのが良いんだ。雪は解ければ水になって袋から染み出すが、小石や土はそうはいかん」

スーガがアミの使い方をタムに教えながら言った。タムは見よう見まねでアミを振ってみたけれど、そのぎこちなさたるや、笑うしかなかった。長いアミをスーガのように機敏に扱うには慣れがいるようだ。リンの方は、もう《月光採り》に出て三年目とあって、タムよりは大分うまく振っている。悔しそうにリンを見ているタムの背中を、スーガが軽く叩いた。

「初めてにしては上手く振れてるよ。まあ、最初は振り方なんて大したことじゃない。折らないでさえくれればな。さあ、そろそろ波が来るはずだ。アミを構えて待ってみな」

「波、ですか?」

言われた通りにアミを両手で構えながら聞き返すと、スーガは手袋をした手で月を指差した。

「そうだ。ずっと月を見ていれば嫌でも分かる。言葉なんてのは、本当のことを伝えたい時はそんなに役に立たんよ」

そう言われては、それ以上聞くわけにもいかずに、タムはリンを振り返った。同じようにアミを構えたリンは、その視線に気づいて、肩をすくめて見せた。そしてすぐに月を見上げる。ふとあたりに視線を巡らすと、もはやうろついている人は誰もなく、老いも若いもみんな体の脇にアミを構え、じっと空に目を注いでいた。

わずかな風に髪がそよぐのさえ聞こえるほど静かだった。じっとしていると、指先や足先から冷気に食まれていく。

それは突然にやって来た。地鳴りが近づいてくるように、大きな力が迫ってくるのがタムにも分かった。波だ。剣の閃きにも似た、一刹那のしずかな爆発の瞬間をとらえて、いっせいにアミが振るわれた。

すばやく雪の上に伏せられたスーガとリンのアミは、中にやわらかい何かを孕んでふくらんでいた。タムが二人より一拍遅れて伏せたアミは、重力に引かれるがままに雪の上にしおたれてしまい、タムがそっと端を持ち上げて中を覗いても、やはり何も入っていなかった。その間に、リンとスーガは慎重な手つきでアミの口を絞って月光を回収している。

「まあ、ちょっと遅かったな」

「最初からうまくなんて行かないよ。結構、難しいんだ」

タムのアミに何も入っていないのに気づいたリンとスーガが、口々に彼をなぐさめた。タムは白いため息とともに微笑を返して、アミを構えなおした。リンとスーガもすぐにアミを構えていたからだ。

そう待たずに、次の波がやってきた。またしてもタムのアミは二人よりも少し遅かった。しかし、今度はリンも失敗している。リンが悔しがってアミを素振りしていると、いつの間にかスーガがそれを眺めていて、「右手に力が入りすぎなんだ。そんなに握ったら滑らないだろ」と指摘した。リンは分かってるよ、などとブツブツ言いながら振り直す。タムも真似をしてアミの素振りを始めると、スーガは頷きながらそれを見守っていた。

波は次々にやって来た。しかしアミを振っても振っても、タムには月光が採れない。タムはじりじりとした焦りと失望を感じていた。

「タム、そんな怖い顔をしたら幸運が逃げるぞ」

スーガに心配そうに言われて、タムは眉間にかなり力が入っていることに気がついた。緊張をほぐすためにも笑おうとしたけれど、目元が引きつって不気味な顔になった。

「悪いことは言わないから、今日は練習だと思ったほうがいい。なに、冬は始まったところじゃないか」

慰められて、タムは余計にうつむいてしまった。

「お前はよく手伝いもしてくれるし、ずっとうちにいたって構わないんだ。いい月晶を採ろうと思ったら、まあ焦らずに時間を見ることだよ」

スーガはさらに言葉を重ねたけれど、タムが泣き出しそうな顔をしているのを見て、口をつぐんだ。

タムは、故郷では王の世継ぎに仕えていたという。その国では月晶は貴重品で、国で一番の職人たちの手で磨き上げられ、城の広間を飾ったり、褒美として与えられたりしたそうだ。タムが仕える王子も、持ち運び用の美しい月晶ランプを一つ持っていた。しかしある時、タムは王子の言いつけで宝物庫へそのランプを取りに行き、戻る途中でうっかり落として壊してしまったのだった。両の拳を合わせたほどもあった立派な月晶は、粉々に砕けて二度と元には戻らなかった。それで、壊した月晶に負けないものを取り戻してくるように、という命を拝して国を離れた、というのが、スーガたちの聞いたタムの身の上だった。

要は、遠まわしな追放だ。どのような国であれ王に献ずるような月晶を採るには、それなりの経験と技がいる。タムは月晶を採りさえすれば帰れる、一日も早く帰りたいと思っているようだったけれど、スーガたち大人の目から見ると、その健気さが憐れを誘った。年端の行かない少年を一人で旅に出したという時点で、命じた側は死ぬことをすら期待したのかもしれないというのに。