月の向こうの地下世界

リンは広場に着いてやっと足を止めた。

「あーもう、父さん早くこないかなあ」

言いながらそわそわと後ろをふりかえる。タムは息を整えながら苦笑した。リンは笑われたことにすこし気を悪くしたようで、片眉をあげてじろりとタムを見た。

「今度の《月光採り》は名誉がかかってるんだ。年下の女の子が相手だからって、男たるもの、約束は守らなくちゃ」

リンが言っているのは、数日前に近所のイーオウとした賭けの代償のことだ。イーオウが村の周りに巡らされた柵の上を歩けるかどうかに、リンは次の《月光採り》で一番明るい月光を賭けた。柵と言っても、牧草地を仕切るような素朴なものではない。大人の身長ほどもある、戦いの時のためにめぐらされた防壁代わりの柵だ。等間隔に、上や斜めの方向へ切っ先を突き出した杭もある。リンは鼻で笑って、イーオウが途中で落ちるほうに賭けた。

しかしイーオウは身軽に柵の上へよじ登ると、両手でバランスを取りながら器用に歩いて行き、リンが指定した杭をたっぷり二本も通りすぎてから余裕しゃくしゃくで飛び降りたというわけで、リンはどうしても一番と言い張れるくらいの月光を採らなければいけないのだった。

「負けないからね」

タムはふざけっぽく言った。彼とて、自分の主人のために立派なものを手に入れなくてはいけない。そのためにこの村まで旅してきたのだから。

「べつにタムに勝たなくたって良いよ。タムの方が良いのを持ってるってイーオウに言わないでいてくれたらね」

リンは頭の後ろで手をくんで、さらりと答えた。

「それよりどこへ行く?一番いいのが取れるって言うのは祠の近くだけど、大きいのは森の方で取れるから森の方が楽しいんだ。まどか丘のあたりはダメ。野光虫が入るから」

そこで近所のノーホ親子が来たので、リンは口をつぐんで脇へ避けた。すれ違うときにひとこと、ふたこと挨拶をかわす。ノーホの息子はリンと同い年で、結った髪の根元から半分くらいが父親そっくりの赤毛だった。

「危ないからあんまり子供だけでうろつくんじゃないぞ」

ノーホは指の長い大きな手でリンの頭を帽子ごとなでて去っていった。リンは素直に返事をしてから、タムをふり向いた。

「そういえばさ、誰もいない所に行っちゃダメだよ。ヨーゲが出るから。ヨーゲ、見たことある?」

タムは首を横に振る。

「壁掛けの模様でなら見たけど」

《月晶の野》には怪物の言い伝えが沢山あり、ヨーゲはその代表だった。盗んだ家畜の骨でつくった棍棒を持ち、腰に狼の皮をまとっている毛むくじゃらの怪物で、夜になると丘のまわりをうろついて子供や家畜をさらって食べてしまうという。

「リンは遭ったことあるの?」

「ある」

リンがめずらしく真剣な顔をしてうなずいた。

「去年、三回目に《月光採り》に出た時にさ。そんときは四人でいたんだけど、ヒューリゴーの弟が連れて行かれて、もどってこなかった」

タムはおもわず広場のまわりを見ずにいられなかった。当たり前ながら、風雪に耐えてきた木の家が昼間とおなじように並んでいるだけだけれど、その闇のどこかから、舌なめずりの音が聞こえるのではないかという気がして。

「……みんな一緒に行くんだよね?」

そう問いかけると、リンはまたうなずく。

「そのつもりだけど、去年だってべつにヨーゲがいそうなとこに行こうと思ったんじゃないよ。夢中だったからちょっと離れたのに気付かなかっただけ。あいつらは影になってる場所が好きなんだ。見つかったらとにかく睨んで、逃げる時はゆっくり後ずさりだよ。襲ってきたらアミの柄で頭の横を殴る」

リンはアミを振って殴る真似をして見せた。タムは眉間にしわを寄せて、思いついたことを口にした。

「でも、そしたら好きな所に行かせてなんかもらえないんじゃ?」

「そうなったら、何か考えるよ。そんな渋い顔しなくても大丈夫、いろいろ手はあるさ」

リンが気楽に言った時、横からぬっと人が現れて、二人はびっくりして振り向いた。

「よお、リン」

いつの間にか立っていたのは、イーオウの二番目の兄のナトガだった。年はリンより二つ上で、髪はもうすっかり金髪になっている。リンが隣でとっさに緊張したのが分かった。ナトガは日ごろから何かとリンに絡んできて、意地悪なことを言ったりしたりするのだ。少し離れたところには、いつもナトガと一緒の仲間たちがいた。

「こんばんは。何か用?」

リンがけんもほろろに言うと、ナトガは図太い笑みを見せて、リンの頭をなでた。同じしぐさなのに、先ほどのノーホとは全く意味が違うのがよく分かる。

「ご挨拶だなあ、まだ髪の白いようなチビッ子が一人でうろついてちゃ危ないと思って声かけてやったのにさ」

「間に合ってるよ、タムが一緒だし。タムは一人で平原を渡ってきたんだからね」

ナトガの手を邪険に払いながらリンが切り返す。あっさり手を引っ込めて、ナトガはにやにや笑いながら言った。

「そっかそっか。じゃ、今日はそのすごーいお友達と森の向こうにでも行くんだろうな?なんたってウチの妹に、今日採れた月光の一番良いのをくれるんだもんな」

「そんなの、ナトガに指図されることじゃない」

リンはさっと顔に血を上らせたけれど、冷静になるべくナトガから目を逸らした。

「いやいや、そんなんじゃ困るね。俺はおまえが約束を守る方に、今回の月光採りで一番の月光を賭けてるんだ」

ナトガは自分で言って自分で吹き出した。リンがたまらず振り返って彼をにらみつける。しかしナトガの方は、そんなことではビクともしない。何せリンはナトガより頭一つ小さいのだ。

「お前さあ、バカだろ?自分のもんじゃないのにどうやって賭けるんだよ。ウソつきの腰抜け野郎、お前なんか、まどか丘で夜光虫でも採ってるのがお似合いだ」

ナトガがさっと手を出して、リンの肩を小突いた。足元が悪くてよろけたのを、タムが慌てて支える。リンは一瞬、体格の差で負けない方法で反撃することを考えた。けれど習慣がその見えない拳を包み込んで、ただ睨むだけに留めさせた。

タムがはらはらしながら二人を見守っている。ナトガは勝ち誇って軽く顎を上げ、仲間たちの方へ戻っていった。

「ウソつきになんかなるもんか。明日の朝、見てろ!」

リンがその後姿に向かって叫んだ。ナトガは振り返りすらしなかった。

その後、のんびりと歩いてきたスーガと合流して、三人は長老のところへ《向こうの火》をもらいに行った。スーガがリンのふくれっ面に気付いて理由を尋ねたけれど、リンは何でもないと言い張ったので、スーガは首を傾げただけで深く追及しなかった。

広場で村人を迎えていた長老は、シワとヒゲで顔が見えないような老人だった。背中も丸くなってきている。けれど、立派な黒狼の毛皮で襟を飾って、幾何学的な月光の模様を刺繍した伝統の衣装を着こなした姿には、往年の雄姿を偲ばせる威厳があった。子供たちとはまた違う風に結い上げた三つ編みはどこを取っても真っ白で、彼の人生の中で一度たりともそれ以外の色だったことはなかった。

スーガが挨拶をすると、長老はシワの奥の青い目を光らせて、鷹揚にうなずいた。

「しきたりに従い、俗世のものは今晩なにも口にしていないな?」

スーガとリンが頷いたのを見て、タムも真似して頷く。何も食べていないのは本当だった。月光採りに出ると決まった夜は、日没から何も食べない決まりだ。酒類も飲んではいけない。

「月光のように清かにあれ。《丘の下の友》らの力がその身に宿るよう。身の内にこの火の燃ゆる限り、そなたらは彼岸の者」

長老が静かに唱えて、篝火に松明を突っ込み、火を移したそれをスーガとリンの頭の上で二度、三度と振った。頭をたれた二人の頭や肩に火の粉がひらひらと降りかかって、吸い込まれるように消える。篝火の熱は大したもので、周りの寒さを押しのけて、肌がチリチリするほどだ。目が乾くので、タムはしきりと瞬きをしながらその様子を見ていた。

と、長老がタムの方を見た。

「異郷の子よ、このスーガとその家族は見ず知らずのそなたをもてなし、客人として、友として遇したな」

タムは一瞬だけ虚を突かれたが、はっきりと頷いた。

「では万事、われらと、われらの友との取り決めに従い、誠意を示すことを誓うな」

「必ず」

タムは今度も頷きながら答える。長老も頷き返して、タムの頭の上で松明を振った。

「これよりそなたは、この世の食物を口にしてはならぬ。涙を流してはならぬ。声を立てて笑ってはならぬ。それらを守る限り、寛大なる《丘の下の王》がわれらのいま一人の友にも等しく力を貸し給わなん」

松明からこぼれた最初の火の粉がタムの肩に触れたとき、どこからともなく光の泡のような淡い笑い声が湧き上がった。花の香りがふっと漂い、はっきりと温かい風が一陣、タムの黒髪を揺らして吹き抜けた。その一瞬後にはすぐに冬が押し寄せたけれど。

元の通り雪まじりの風が吹き、篝火の爆ぜる音と、薪に染み込ませた月光酒の匂いが戻った。タムを含めた四人が四人とも、驚いて口をきけなかった。

やがて、長老が声を取り戻した。

「月晶を求めて《月光採り》に加わった旅人はこれまでも時折おったものだが……このようなことは初めてじゃ。どうやら、そなたはよほど《良き人々》に歓迎されているらしい」

その声は低く、誰にも聞かれるまいとするかのように小さかった。そして彼はタムの目をじっと見、それから、ふと悲しげにも見える表情でリンとスーガを見やった。

「……心しなさい」

彼らにとってあの輝かしい隣人たちは強力な庇護者であるものの、好かれることが僥倖とは言い切れなかった。月の向こうの彼らの国へ連れて行かれてしまった人間は、二度と帰って来ることができないのだから。

タムは松明の火を見つめてそこに字を読もうとするように、難しげに眉をひそめていた。