「ほら、起きて、起きて!そんなに寝たんじゃ夜が明けちゃうよ」
乱暴に体を揺すられて、タムの心地よい眠りは煙のように散っていった。
起きなくては。起きて、月光を採りに行かなくては。心の中でそう唱えるものの、体は言うことを聞かず、小さく唸ってキルトにくるまり直した。根気強く肩が揺さぶられる。
タムがもぞりと首をうごかして薄目をあけると、戸口からもれて来る薄明かりを背にしている少年の影が見えた。影の主、リンがタムを揺するのをやめて、ランプのスイッチを捻った。はちみつ色の光が少しずつこぼれ、狭い室内を照らした。タムの小さなベッドは家具が多くて窮屈な部屋の真ん中にあり、その横にリンが立っている。リンは毛皮の裏のついたコートを着て、首には毛糸のマフラーをして、もうすっかり外へ行く準備ができていた。
タムは光をさけて顔をキルトにうずめた。黒い頭しか見えなくなっている所へ、リンがふたたび手を伸ばす。
「タァム、何のためにここに来たんだよ」
彼は星の模様のキルトをむんずと掴んで、毛布ごとタムから引き剥がした。いきなり冷気にさらされたタムは抗議の声を上げて手足を縮こまらせる。リンは足元の方にキルトをたたむと、その往生際の悪さにあきれて腰に手を当てた。
「……寒いよ、リン」
タムはいったんぎゅっと目をつぶってから、そろそろと開いた。非難と謝罪のいりまじった眼差しがリンに向けられる。けれどリンは、おかまいなしにタムの腕を取って引っぱった。タムは逆らわずに起こされる。
二人の姿は、見事なくらい正反対だった。明るい青い目に真っ白な髪のリンは、目こそ上がり目だけれど、幼げな丸みを帯びた輪郭で、全体的に優しい。黒い目に黒い髪のタムはどちらかと言えば面長で、彫りは深く、真っ直ぐな眉をひそめていると岩のように気難しそうだった。本当に頑固で聞かん気なのはリンの方なのだけれど。
「早く仕度して!もう行くんだから」
リンはまだ目をこすっているタムに弾んだ声をかけた。何せ、今すぐにでも外へ飛び出したくてしかたないのだ。冬のさなかで月の明るい、それも特に寒い日でなくては《月光採り》には行けない。いくら一年の半分以上が冬といったって、条件がぴたりと揃う満月の日があと何度あるものか。
それに今夜は一年の最後の晩だった。新しい年の始まり、この冬はじめての《月光採り》だ。
リンたちの村がある広い平原を、人は《月晶の野》と呼んでいる。良質な燃料として重宝される月の光の結晶が、そこで造られているからだ。雪と北風をあるじとする僻地にもかかわらず、《月晶の野》には様々な国の商人たちが気候の許すかぎり引きも切らず出入りしていた。
月晶は、燃やせば陽光の思い出のように光り、磨けば明け空のように澄み、水に入れればこれを清めると言われた。加工したものはランプや特殊なレンズ、宝飾品としても使われており、国境を接する国々では、平民がまともに買おうとすれば半年はつましく暮らさなければいけないような値段がついた。だから、時には、自分で月光を採りに訪れるような旅人もいる。
タムはしかたなく床に足を下ろして、つま先に噛み付いてきた冷気にくしゃみをした。一方のリンはじっとしていないで、ベッドの足の方で身を寄せ合っているタンスなどから衣類を掘り出してはタムに投げてよこした。タムは容赦なく頭や肩にかぶさってくるものをひとつひとつ広げて、膝の上にかさねた。
毛皮の帽子、手袋、マフラー、セーターとその下着。ご丁寧にコートまで取ってきてようやく人心地ついたようで、リンは軽く息をついて足をとめた。タムは真正面に立った彼を見あげる。一瞬、気もそぞろに窓の外へ向けた顔の、頬の曲線に月晶ランプのあたたかな光がきれいに重なっていた。
「玄関で待ってるからね。二度寝するなよ」
リンはタムに目を戻し、釘を刺してから部屋を出ていった。
タムはあくびを一つして、ベッドから立ちあがった。服が床に落ちたけれど、そのことは大して彼の気を引かなかった。カーテンを開けて、二重の窓に額がくっつくほど顔を寄せる。彼の頭が作った影の中に、外の景色が映った。
明るい月夜だ。もうすぐ空を昇りきる満月に照らされて、かすかに青い枯れ野が見えた。白く光る道の上を、黒い人影が三々五々、かたまって歩いて行く。村の広場へ向かっているようだ。道の先に目をやると、家々の煙突から吐かれた細い煙に、ほの赤く火明かりの色が映っていた。
冬枯れの景色は、タムの目にはいつも新鮮だった。そして、ここが故郷からとても遠いことを思い知らせる。ふと焦点の合った窓に、気難しげに眉をひそめた顔が映った。
吐息で窓が曇った。タムは窓から顔を離してベッドのそばに戻り、足の方に置かれた持ち運びストーブに手を伸ばしかけて、やっぱりやめた。おもむろに寝巻きを脱ぎ捨てると、冷えた空気に鳥肌が立つ。頭の上で燃えていたランプの光が細かく震える音をさせて揺らいだ。タムは床の上から衣服をひろいあげて、寒さに震えながらそれらを着込んだ。
タムがすっかり着ぶくれした姿で玄関へ行くと、リンとその父親が待っていた。リンの父親のスーガは背が高く、恰幅も良くて、リンやタムなら二、三人は担げそうだった。身ごろ一面を刺繍したコートで晴れやかに装うと、いかにも堂々としている。大造りな木の扉の前に、背が小さくてやせっぽちのリンと一緒に並んでいると、遠近感が狂っているような気さえした。
「良く起きたな、タム」
栗色の髭の下からスーガが声をかけた。顔には憐れんでいるのかと思うほど優しい微笑が浮かんでいる。誰の紹介でもなくふらりと村を訪れたタムを、快く家に迎え入れてくれたおおらかな人である。
「リンのおかげで」
タムははにかみがちに微笑み返し、ちらりとリンを見やった。リンはにっこりと屈託の無い笑顔。彼の白い髪は月の下で銀色に光っていた。母親似なわけではなく、《月晶の野》の子供はそういうものなのだ。
「月晶を採りに来たって言っといて、寝過ごす気かと思ったよ。そしたら母さんたちと一緒に地下の蔵の整理だからね。男はこれで月光を採るんだ」
これで、と言ってリンが細長い柄のついた袋を振った。柄はよく磨かれた木で、細かい彫り物がしてある。ネジのように溝を掘られた先端の輪に、頭にすっぽり被れるほどの真っ黒な袋がくくりつけられていた。
その美しさに感心しているタムに、スーガがやや細身のアミを渡してくれた。
「タムにはうちのじいさんが使ったものを出しておいたよ。縁起のいいアミだ、じいさんがこれを使って採った光が、この五十年で一番あかるい月晶になった。前に祠で見たろう?」
タムは自分のアミをしげしげと眺めた。木目のくっきりした黒褐色の美しい木で、柄のいちめんに三本角の雪鹿が駆けていく様子が彫られている。持ち手の部分には良くこなれた滑らかな皮が巻いてあり、先端の輪には黒い布の袋が結わえ付けられていた。タムは、リンの家の印である雪鹿たちの凹凸をするすると手袋ごしになぞって、スーガに礼を言った。
「それと、これだ」
スーガがタムに渡した袋には、片手にちょうど収まるほどの大きさの丸い物がいくつか入っていた。
「トロの実?」
タムはさっそく一つ取り出してみる。
「月光を採ったらそれに入れて保存するんだ。アミは一つしかないんだから、ずっとアミに入れておくわけにもいかないでしょ?」
リンが横から言う。見ると、似たような袋をベルトから吊り下げていた。タムが一つの栓を抜いてみようとすると、スーガがぬっと手を伸ばしてそれを止めた。
「開けてはダメだ。月晶用の木瓶は吸い込む力が強すぎる。覗き込んだりしたら目が見えなくなっちまうよ」
それを聞いたタムは、半信半疑という顔でトロの実を見やり、そっと袋に戻した。そしてリンに倣って袋をコートのベルトに結わえると、それを待っていたリンがとんとタムの腕をたたく。
「行こう!アミを折ったりなくしたりすんなよ」
リンは言うが早いか、広場にむかって駆け出した。
「あ、待ってよ!」
タムはふいを突かれておもわずアミを取り落としそうになりながら、その後を追いかけた。
タムは鼻が痛いのをがまんして、前を走っていくリンを追った。トコトコと音を立てる耐氷水車や、掻き寄せられた雪に埋もれかけている家のあいだを抜けて行く。村は明るく照らされた雪壁と、年経りた木材の黒々した肌とで影絵のようになっていた。踏み固められた氷の道は、どの角を曲がってどこへ繋がるのか怪しい。それでも、自分の吐く息の煙をつきやぶって走っていくと、やがて道の先に広場が見えてきた。
広場はかがり火の明かりで赤く光っていた。これから《月光採り》にでかける人たちが何人か集まっている。広場の中心に設えられた一番大きなかがり火の横に、銀と骨の首飾りをした集落の長がいて、寄ってきた人たちに火をわけていた。
「あの火をもらわないと《月光採り》にいけないんだ。《向こう火》って言うんだけど」
リンが走りながら半分振り返って言った。寒さと興奮のために頬は上気し、目はきらきらと輝いている。一方のタムは、走るだけでたくさんだった。足元は暗く、転びかけるたびに背筋がひやりとした。いろいろ着込んでいるので動きも思うようでないし、体の重みを感じるばっかりだ。
タムはもどかしさと疲労の不快感をはっきりと感じていた。リンの家の仕事を手伝ったり、村の子供たちに混ざって遊んだりしているうちに分かったことだけれど、タムはあまり体を動かすのが得意ではない。