IN THE BLUE

オフィス街のオアシス、ウォルナット・コーヒーハウスの定休日は木曜日だ。それと、オーナー姫木氏の奥さんの月命日である16日。

休みの朝、夢から覚めたカナは、げんなりしていた。

相棒のダンが言ったことは本当だった。《境界線》の向こうは今、ほとんど水浸しになっている。まだ無事な部分もあるけれど、酷い状態だった。どこかの誰かが、水っぽい世界にドデカい穴を開けたことは間違いない。

故意か、事故かはともかくとして。

「あーもう……見なかったことにしたい……」

布団と膝の上にボスっと倒れこんで、カナはぼやく。《境界線》は、破るより繕うほうが何倍も難しいのだ。

とっとっとっ、と軽い足音がして、ダンが台所の方から駆けてきた。カナの部屋は単身者用のよくあるワンルームで、今は台所のドアを開けている。

ダンはそのまま、布団からちょっとはみ出たカナの足に向かって問答無用で突っ込んだ。

「ちょっ!なにっ」

分厚いはずの足の皮だが、爪が刺さればそれなりに痛い。カナはびくっとして足をひっこめた。ダンはしつこく何度も突っ込んでくる。

「あのね」

むずっとその両脇をつかまえて、カナはダンを持ち上げた。両足をぶらんとやる気なく垂らして、ダンは尻尾の先だけパタつかせる。

『オサカナだったでしょう』

「うん、そうだったね〜」

カナは仕方なく、そのまま猫を腕の中に抱きこんだ。当然のように仰向けにされながら、ダンがごろごろと喉を鳴らし始める。

「あれ、どうしよっか。誰かが《境界線》を破って回ってるみたいだった。うっかりってレベルじゃなかったよ」

『塞いで閉じ込めても、また取りに来るよ』

「ん?」

『穴を開けてる奴を』

「誰が?」

『カナと似たケモノ』

気持ち良さそうに目を閉じて、ダンは呟く。それは、人間の女の子という意味だ。

「そこまで分かってて、何にもしないんだ?」

むにっと顔の皮をつまむと、ダンはぶるぶるっと頭を振って逃れた。

『別に、する理由がないもん』

「理由ならあるでしょ?世界がつぶれちゃったらどーすんの。巻き添えでダンも私も死んじゃうかもよ?」

柔らかい耳をいじりながら、カナは言い聞かせる。

ケモノが他の世界に影響を及ぼすのは、悪だ。

だからカナやダンに殺されるのは、穴を通って来てしまう方が悪い。

――運が悪い。

「止めないと。ケモノはケモノ、ヒトはヒト。それぞれの世界があるんだから」

カナは膝の上でダンをひっくり返して、ぽんと背中を押した。ダンは何事もなかったかのようにカナの膝を立ち退く。

「さ、茉莉町に行きますかぁ」

伸びをしながら、カナは気合を入れた。

身支度を整えて茉莉町にくりだしたカナは、歩き出して数分もしないうちに、自分が夢の中にいるのか現実世界を歩いているのか分からなくなった。

それくらい茉莉町の状態は酷かった。

排水路が溢れて水浸しになっているのは、長雨のせいなので仕方ない。今日の雨も大分激しいことだ。

その目に見える方の水にくわえて、目に見えない水が、カナの腰の辺りまで溢れていた。見えるが、触れない。夢と現実の《境界線》がかなり危うくなっているせいで、《視力》を持つ人間には、見えてしまうだけだ。

カナはまず、茉莉町四丁目交差点へ向かった。桜井さんの夫が「通ると頭がぼーっとする」と言い、タクシードライバーが実際に事故を起こした現場。

交差点とはいえ、見通しの良い直線道路がほとんど直交している交差点だった。

「ああ……」

消火栓の標識のあたりを見て、カナは一人納得の声を漏らした。ふよふよと水草のようなものが漂っている。これもまたケモノだ。もう意志も何もあったものではなく、その場から動くことすら忘れたようだが。

突然に声を出したカナを、通りかかった中学生らしい子供が驚いたような顔で振り向いて行った。

(おっと)

カナは心の中でだけ口元に手を当てて、ただの通行人を装った。

道は通学途中の生徒たちで賑わっていて、雨の中、色とりどりの傘が咲いていた。女の子は紺のセーラー服、男の子は同じ色の学ランだ。みんな、目に見えない水をじゃぶじゃぶと掻き分けながら歩いていく。

ふと視線を感じて、カナは首をめぐらせた。そして辛うじて、女の子の顔が水色の傘に隠れたのを捕らえる。

何となく気になって目で追っていくと、その少女はカナの目の前で横断歩道を渡った。その時、左目にかけた眼帯が見えた。

あのくらいの年の子が眼帯をするのは珍しい。視力が落ちたりするらしく、避けるのだ。

(あの、左目……)

カナはうなじの毛が逆立ってくるのを感じた。出所の分からない、怒りにも似た感情が湧いてくる。普通の人は、不吉な予感、とでも言うのだろうか。

(ケモノがいる)

眉間にしわを寄せて、カナは少女を見つめた。

茉莉町を歩き回って、やがて青ヶ池公園にたどりついたカナは、思わず悲鳴を上げそうになった。

公園はほとんど水没していた。その中で、ぎゅっと凝縮したような青のアジサイが繁茂している。ここの《境界線》は完全に破られていた。その綻びから、異界の水が流れ込んでいる。

一緒に流れ込んできたケモノを、どこからともなく現れたダンがぱくりと始末した。ダンはそのまま、カナの足元に寄り添う。

「ここを閉じなくちゃ」

ダンは呟きに応えるように、カナの足に背中をするりと擦りつけた。

(ねによりて けいをなし)

ねによりて けいをなし

しをのべて じゅとならん

その花の

その香の

行く方の奈辺を問うなかれ

心の中で、お守りを握り締めるように、言葉を唱える。その言葉がカナの形を変えていく。《境界線》を越えるとき、何も傷めずに済む姿へ。

カナは目を閉じているので、自分がどんな姿をしているのか見たことがない。大事なのは、ダンがカナを見分けて、そばに居てくれること。

その毛皮の滑らかさを感じ、その体の温かさを感じること。

カナは集中して、綻びきった《境界線》の傷口から、生きている糸を引き出した。

(あるべき姿へ)

ある時は梳くように、ある時は縒るようにして。少しでも焦れば、《境界線》はふたたび綻ぶ。

誰かが何度も行き来した綻びは、直す手間もひとしおだ。

何とか一段落ついたとき、カナは自分が誰かも思い出せなくなりそうなくらい疲れていた。

倒れこんだ背中を、温かい生き物が支える。

カナは、それに縋り付く自分の手を意識した。少しずつ、今度は自分の姿を紡いでいく。

ふうーっと大きくため息をついて、カナはしゃがみこんだ。雨に濡れきったベンチに座る気にもならなかったのだ。

どれくらいそうしていただろう。カナは近づいてくる足音を聞きながら、反応するのも面倒で、どうしようか迷っていた。

「小金井さん?」

思いがけず桜井さんの声がして、カナはがばっと顔を上げた。

「桜井さん!」

「どうしたの、こんな所で。ビックリしたわよ、カゼ引いちゃうでしょうに」

「あ、いや……ちょっと、散歩してたんですけど、立ちくらみで。もう大丈夫です。桜井さんこそ、どうなさったんですか?」

「お店の近くなの。コンビニに行こうと思って通ったんだけど。ちょっと、うちで休んでいったら?そうじゃなくても、ぜひ寄っていって」

桜井さんは嬉しそうにホクホクした笑顔でカナの腕を引いた。カナはありがたく助け起こされて、その申し出を受けることにした。どうせ今日は、これ以上のことはできそうにない。