IN THE BLUE

起立、礼。

号令とともに今日も平和に一日が終わった。いそいそと帰り支度をするリリのところに、静かにカレンが近づいてきた。

背中に両手を回して、珍しく、喉に小骨が引っかかったような顔をしている。

「どうしたの?」

リリが尋ねると、カレンは伺うようにじっとリリの顔を見た。

「リリ……」

妙に含みのある声に、リリはちょっと身構える。

「ごめん!」

カレンは頭を下げると同時に、ぱっと背中に隠していた一冊のノートを差し出した。

交換日記だ。リリはずいぶん久しぶりに見る気がする。

「いつかリリが居なかった時さ、飽きてきたから順番変えない?って話になったの。伝えるのすっかり忘れてて。しかもアキナがさ、順番間違えてさ、リリのこと飛ばしてルリに回しちゃってて。リリ最近書いてないなーっては思ってたんだけど、ミクシとかも書いてなかったから、忙しいんだと思ってて。ほんっっとゴメン!」

「え……あ、全然気にしてないよ。もうそれ、いいし」

リリは恨みに思っていないことを伝えたくて、にっこり笑ってカレンを許した。カレンは驚いたような顔をしている。

ハイドランジアと会う前なら、こんな風にさっぱりとは言えなかった一言だ。リリは、そんな風にふるまえるのが嬉しくて仕方なかった。

「え?いいって?」

「気にしないでってこと」

目をしばたいているカレンに、リリは笑顔のままで答える。

「じゃあ、今日、わたし寄るとこあるから。また明日ね」

「あ……うん」

カレンはふしぎそうな顔のまま、リリとノートを見比べていた。リリは顔を上げて、得意な気持ちで教室を後にした。

桜井さんの本屋の壁にかけられた時計を見て、カナは目を疑うほど驚くことになった。

中学生の登校時間に茉莉町に来たのだから、朝の八時かそのくらいだったはずだ。それから一時間くらいは歩き回った気がしているが。

時計が指していたのは、午後三時だった。

(それだけ、大きな穴だったってことか)

「時計がどうかした?」

桜井さんがカウンターの前の椅子を勧めてくれながら、尋ねた。カナは慌てて眉間を開き、笑顔を作る。

「いやあ、もう三時なのかってびっくりしたもので」

「そんなに集中して散歩してたの?」

「えへ」

何が『えへ』だ、とカナは自分のことをののしった。しかし、口から出てしまったものは仕方ない。

「初めてお邪魔しましたけど、すてきなお店ですね〜。すごく桜井さんっぽい」

と、店内を見回しながら話題を変える。

実際、良い店だった。姫木氏のウォルナット・コーヒーハウスとどこか通じるものを感じるのは、この店を束ねる個性があるからだろう。

広さは十四、五畳というところだろうか。壁はぐるりと本棚になっていて、真ん中のあたりは、背の低い本棚と据わり心地の良さそうな椅子が互い違いに置かれている。

そういえばいつか、中学の生徒が暇つぶしに来るからね、椅子を置いちゃったの、と言っていたのを思い出した。

「ありがとう。良かったら、好きな本を読んでても良いわよ」

桜井さんは嬉しそうに笑う。

「ところで桜井さん、その後、耳の調子はいかがです?」

「ああ、耳ね」

世間話しの途中で、カランカランと入り口のベルが鳴った。お客さんだ。

何となく気が引けて椅子から立ったカナは、入り口に現れた女の子を見て「あ」と声を出した。

紺色のセーラー服。左目に眼帯。

女の子もカナに気付いた。

「あら、谷中さん。いらっしゃい」

眼帯の少女は迷うように桜井さんに目をうつした。それからカナへ。

「こんにちは。……あの……すみません、お財布、忘れてきちゃったから……」

少女はしきりと目をしばたきながら、小さな声で呟くように言って、くるりと踵を返した。

カナは、逃がしてなるものかと後を追いかけた。途中ではたと振り返って、桜井さんに頭を下げる。

「ごめんなさい。私、ちょっとあの子に用があるので、失礼します!」

桜井さんが首をかしげて「ええ?」と言うのが聞こえたが、カナは構わず、雨の中へ飛び出した。

「谷中さん」

せっかく逃げたのに、追いつかれてしまった。リリは仕方なく振り返る。

何となく、嫌な感じのする女の人だった。年は大学生くらいだろうか。良く分からないけれど。

リリは朝も彼女を見た。そして反射的に、関わりたくないと思ったのだ。

「あの……どちらさま、ですか?」

横に並んできたその人に、リリは精一杯よそよそしく尋ねる。

「私?小金井香奈。突然にごめんね〜。あなたの、その左目のことでちょっと聞きたいんだけど、話してくれるかなぁ」

「お話しすることなんて、ありません」

リリは眉をひそめて何とかそう返した。カナという人は、それでもにこにこしている。

「谷中さん、変な夢をみること、なーい?」

「目のことじゃ、ないんですか」

リリはぎくりとして、その笑顔から目をそらした。自然と早足になる。

(この人……怖い)

「目のこと?どこまで分かってるかなぁ。その目、誰かに貸したでしょう?」

その一言が呪文だったかのように、リリはぱっと走り出した。少なくともそうしようとした。しかし、腕を掴まれて逃げ損ねた。

「放して……」

悲鳴というのは、鍛えないと出ないものらしい。リリは小さな声でそういうのがやっとだった。

「周りでも、変なことが起きてない?ねえ、事故とか、悪夢にうなされるとか。その目を何とかしないと、止まらないんだよ」

もがいてもがいているうちに、手が少しずつ緩んでくる。

ついに、リリの体力が勝った。ずるりと腕を掴んでいた手が外れる。リリは傘を放り出して、まさに脱兎のごとく走った。

(ハイドが何だって言うの?ハイドのせい?そんなの、嘘)

無心で家まで走ってきたリリは、胸をはかはかさせながら左右を確かめた。あの女の人は、追いかけては来なかったようだ。

左目に眼帯をしているのは、色がすっかり青くなってしまって目立つからだ。それと同時に、ほとんど見えなくなってしまった。夢の中でなければ。

右目は見えるし、ちょっと距離感が掴みづらいだけで、そんなに困ってはいない。他に、不都合なんかない。

リリは自分に言い聞かせて、家の中に入った。

リビングへ行くと、一度兄が帰ってきたらしく、カバンがテーブルの傍に放り出してあった。テーブルの上には、手紙が載っている。

一通はリリ宛てだ。差出人は谷中春子(ヤナカ ハルコ)となっている。

夏休み前に家を出て行ったリリの母親だった。

リリはほっとしたように微笑んだ。長いこと会えていないが、母親のことが恋しい。こんな怖いことがあったから、母親に話しを聞いて、どうすればいいか教えて欲しい。

タオルで体を拭いて、濡れた服を着替えると、リリはいそいそと部屋に戻り、手紙の封を切った。

『ママの宝物さん

学校はどうですか?お友達と仲良くしていますか?

もう一ヶ月も会っていないから、ママはリリちゃんの顔が見たくてしかたありません。

ヒロ君が毎日ご飯を作ってくれていると聞いたので、食事の心配はしないで済んでいるのが救いです。

ママのせいで二人に不自由な思いをさせていることをとても申し訳なく思います。

本当にごめんね。

煩わしいことはなるべく早く終わらせて、新しい生活を始められるといいのですが……。』

そんな書き出しの手紙には、母親の近況と、母の実家の祖父母の様子が書かれていた。父親との離婚調停のことは、一言も触れていない。

リリは何度か手紙を読み返して、ふっとため息をついた。

リリの両親は、離婚調停中だ。子供の親権をめぐって、なかなか折り合いがつかないらしい。父方は、長男である博隆を残せと言っている。しかし母親は手放す気はないと真っ向から拒否している。

……リリのことは、どちらも何も言わない。恐らく、母方に行くことになるだろう。

何気なく、母親の香りがしないかと、リリは手紙を鼻に近づけた。紙とインクのにおいはしても、求める香りはそこになかった。

リリは机の上に置いていた読みかけの本に手を伸ばし、手紙と交換して、ベッドの上に倒れこんだ。

そのまま眠ったらしい。リリは自分でそれに気付いて、そっと左目を開ける。

夢の始まりはいつもの通り、青ヶ池だった。アジサイはすっかり色づいて、くっきりと濃い青紫に咲いている。

池の中にハイドランジアがいた。いつもより速いスピードでぐるぐると池の中を回っている。それがどこか苛立っているように見えて、リリは目をしばたいた。

「ハイド、どうしたの?」

尋ねても、応えはない。

「ハイド……?」

リリは水辺にしゃがんで、無意味と知りながら、指先を水に浸した。それでハイドランジアの気持ちが分かるわけではなかったが。

ハイドランジアはやがて少しスピードを緩めて、岸に向かって泳いできた。

『リリ、不吉なケモノが近くニイます』

掠れた地上の声でハイドランジアが告げた。リリはそれを聞いて、こくりと頷く。そして眼帯を右目に付け替えた。

「わたし、多分、その人に会った。でも、関係ないよ。無視したもん。……ハイド、今日も見回りに行こう」

リリが言うと、ハイドランジアはもぞりと反転した。リリはその背にまたがって、岸を蹴る。

まるで一匹のケモノのように、二人は夢の渚へ滑り出した。