IN THE BLUE

夢はリリに逃げ場所を与えてくれた。ハイドランジアと泳ぐのは楽しい。夢は目が見えなくとも十分楽しめる世界だった。それに、ハイドランジアが色々と説明をしてくれる。

何かの境界を越える感覚があるたびに、新しいものがリリの肌に触れ、耳に聞こえた。時には味や匂いもした。知っている声を聞いたような気がする時もあった。

泳いでいるだけで、どうしてこれほど変化が起きるのか、リリは不思議だった。

『ワタクシたちハ、夢を渡ッてイルのでございまス。リリがワタクシの夢ヲ見て、ワタクシがリリの夢を見て、こウして共にアルように』

ハイドランジアに尋ねると、例によって真面目に説明してくれたのだが。

「あんまり……良く分からない」

リリは首をかしげて、ブクブクと息を吐いた。気泡が頬を撫でていく。

『リリが夢を見テいるように、ワタクシも夢を見てイルのでごザイまス』

お互いを想いあって眠ると、夢で会えると昔の人は信じていた、ということを古典の時間に習ったけれど、そういうことなのかもしれない。

「素敵だね。お話の中みたいだね」

リリはひんやりとしたハイドランジアの背中にそっと頬をつけた。

流水の音を楽しんでいたリリの耳に、小さく、聞きなれた声が届いた。

カレンの声だった気がした。

「ハイド、ちょっと待って!」

リリが叫ぶと、ハイドランジアは急旋回した。放り出されそうになったリリは、慌ててその体にぎゅっと抱きつく。

「知ってる子の声がしたの」

『ドちらカら』

尋ねられて、リリは迷う。その時、もう一度声が聞こえた。

確かにカレンだ。ほとんど悲鳴のような叫び声。

リリが聞こえた方に体を傾けると、ハイドランジアは即座に従った。

「何か見える?!」

強い流れを感じながら、リリが尋ねる。

『《境界線》を超えレバ』

ハイドランジアがかすかに応えて、大きく尾で水を打った。

(なら、早く)

そうリリが思った瞬間、網にかかった様な重い抵抗が襲った。ハイドランジアが体をのたくらせる。リリのしがみついている背中まで力がみなぎり、頭のすぐ上で背びれが持ち上がった。

「が、頑張って!」

自然とリリは叫んだ。

ふっと水が消えて、風が耳元で唸った。

きっと、空を飛んでいる。

あやうく目を開けそうになったリリは、恐怖でハイドランジアにしがみついた。

カレンの声はさっきよりかなりハッキリ聞こえている。

「きゃー!!来ないでよ、あっち行ってよ!」

いつもオーバーリアクション気味のカレンは、学校でも良く悲鳴を上げている。リリは時々、これではいざという時だれも助けに来てくれないのではないかと心配になったくらいだ。

それが全くの杞憂だったことは、これではっきり分かった。心からの悲鳴は、ふしぎと色が違うものらしい。

滝のような水音にも負けず、リリの耳にまではっきり届く。

『リリに似たケモノが、別のケモノに追イかけらレテいます』

悠々と空を飛んでいるハイドランジアが冷静に説明した。

「け、獣って。ハイド、追い払える?」

リリは目を開けられないことに歯噛みしながら尋ねる。そう言ったとき、リリはハイドランジアがすぐに降下してカレンを助けてくれることを期待したのだが、ハイドランジアは高度を保ち続けた。

「ハイド?」

『ワタクシは、水源のケモノでゴザいます。こノ夢に水が満チルまで、大したコトはできマせん』

ハイドランジアが消え入るような声で言った。その間にもカレンの悲鳴は続いている。

(それって、どれくらいかかるの?)

『デすがリリには、あレを助けるコとができまスヨ』

リリは思わず「そう」と言って流しそうになった。

「……え?本当に?」

『ワタクシを呼び寄せタのト同じ力で、穴を開けレバ良いのです』

ハイドランジアは平然と続ける。

『その穴ニ、あのケモノを落とセば、あのケモノは夢ノ外へ出されル』

「わたしの、力?」

リリは信じられない思いで呟いた。そんなことが自分にできるとなんて、思ってみたことも無かったのだ。ハイドランジアを、本当に、お話しの世界のように、リリが引き寄せたなんて。

リリの唇の端に笑みが浮かんだ。これは夢だ。夢だから、何だってリリの思い通りになるのかもしれない。

「……やってみる。でもハイド、見えないのに穴をあけられないよ」

ハイドランジアが踊るように速度を上げた。リリはもう、たとえこの水蛇がぐるりと回っても落ちることはない。

『ワタクシの左目ヲお貸ししまショウ……たダシ、リリも左目を貸してクレなくてハイケません』

「わかった。いいよ。わたしも、ハイドに目を貸してあげる」

リリは力強く泳ぐハイドランジアの背にそっと額をあてた。左目がすっと冷えていく。貧血を起こしたときの、血が引いていく感覚に似ていた。

そして、リリは夢の中で左目を開けた。