IN THE BLUE

カナが近付いていくと、猫は片目でそれを見て、やる気の無い駆け足で店の裏に回った。カナはライラックの茂みを潜るわけにはいかないので、反対方向から従業員通用口へ向かう。

ダンは隣のビルの塀の上で彼女を待っていた。しっぽをきゅっと足に巻きつけて、スタイルの美しさを見せびらかすように端正に座っている。

「もう少し穏便にしてくれても良かったよ?後でちゃんと箒で掃きだすつもりだったのに」

カナが少しとがめるように言うと、ダンは緑色の目を意味ありげにまばたいた。

『あれはお魚の味がした。僕、お肉の方が好きだなあ』

焦点のずれた受け答えに、カナはため息をついて首を振った。

「味なんか知らなくてもいいけども……」

先ほど桜井さんの肩にいたのもまた、異世界の生き物、ケモノだ。ただ、実体を持つほどの力がなく、そのために形も不安定だった。つまり、思い出す気がしないほど見た目がグロテスクということだが。

『この前のもお魚の味だった。ずっとお魚ばっかり食べてるよ』

ダンはなにか諦めたようにボヤいた。妙に含みのあるその言い方に、カナは眉をひそめる。

「この前って、一昨日のこと?何か、関係があるって言ってる?」

『さあ』

肝心なところで肩透かしを食わされて、カナは分かりやすくガックリした。ダンはわき目も振らずに顔を洗いながら続ける。

『ほころびた《境界線》の向こうから、次々にお魚味の奴らが落ちて来るんだ。《夢世界》はこのところ水浸しで、おちおち昼寝もできやしない』

「え?そんなことになってるの?」

俄然、カナの表情が険しくなった。声にも力がこもる。ダンは一瞬だけ手を止めて、彼女に気のない視線を向けた。言外に批難された気がして、カナはたじろぐ。

「だって、仕方ないでしょ?普段は夢を閉じてるんだから。分かったよ、見に行くよ」

この世にはたくさんの並行世界があり、その狭間の数だけ《境界線》がある。普通ならば、ある世界の中の実体は《境界線》の外へ出て行かない。形の無い夢だけが、外へ漂い出ることを許されている。

もし出てくるとしたら、それだけの力があるか、穴が開いているかのどちらかだ。

『毎度毎度、好きだね』

ダンがあくび交じりに言って、巻きつけていた尻尾の先を打ち付けるように振った。カナはすねたように肩をすくめる。

「だって見えちゃうんだもの。見ちゃったら、何もしないわけにはいかないでしょ?これだけオサカナが漏れてくるってことは、けっこうな大穴が開いてるはずだし」

彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、ダンは何を思ったか、スクっと立ち上がった。話の途中かどうかなど、この猫には関係ない。いつだってそのとき思いついたことが最優先なのだ。

「え、行っちゃうの?ひどくない?」

カナは引きとめようと軽く橙色のシッポを掴む。本気で引っ張るつもりもなかったので、シッポはすべすべと指の間をすり抜けていった。ダンは一顧だにせず壁の上を歩いて行ってしまう。

「けしかけといて、こうだもんなぁ」

自身の肩幅より狭い塀を器用に歩いていくほっそりした後姿を見送りながら、カナは一人語ちた。

カナが耳元のピアスをいじりながら店の中に戻ると、姫木氏は桜井さんお気に入りのシュガートーストを作っており、桜井さんはブレンドコーヒーを飲みながらまったりと沈黙を味わっているところだった。

沈黙と言っても、無音ではない。不快ではない音量で、ラジオからニュースが聞こえていた。

『次は、今月十日未明に茉莉町で起きた交通事故についてです。この事故は、茉莉町四丁目の交差点付近でタクシーが歩道に突っ込み、歩いていた男性をはねて全治一ヶ月の怪我を負わせたものです。警察ではタクシーの運転手を業務上過失障害の現行犯として逮捕し、事故の状況を聴取していました。運転手の証言には不可解な点が多く、警察ではこの運転手が事故当時、泥酔していた疑いがあるとして、事故の原因などについて、さらに詳しく調べを進める方針です。道路は見通しの良い直線道路で……』

「ああ、この道、主人が通勤で使うのよね」

カップを持ったまま、桜井さんが何気なく呟いた。姫木氏はうすく色の付いたトーストを一度取り出して、蜂蜜とバターを塗りながら合いの手を入れる。

「へえ、そうですか。それじゃ、通行止めとかで大変だったんじゃないですか?」

「そうなの。しかもね、いつも車なんですけど、『このへんを通ると頭がぼーっとするんだ』なんて言うのよ」

「怖いですねえ。ひょっとして前にも事故があった場所だったりして?」

姫木氏は胸の前で両手をぶらんと振って見せる。おどけた言い方に、桜井さんが軽く笑った。

テーブルを拭いていたカナは、思わず手を止めて尋ねた。

「桜井さんて茉莉町に住んでらっしゃるんでしたっけ」

「え?何か言った?」

桜井さんがカナの方を体ごと振り向いた。カナがもう一度同じ問いを繰り返すと、桜井さんは「そうよ」と答えてから、困ったような顔で自分の右耳を指した。

「ごめんね、なんだかこの頃、そっち側から話しかけられると良く聞こえないのよ」

「あー、そうですよね」

カナは反射的にそう返して、冷や汗を握る羽目になった。とんちんかんな受け答えに、桜井さんもふしぎそうな顔をしている。

さっきあなたの肩口についてたモノのせいですよ、とは口が裂けても言えないので、カナは笑ってごまかした。

「その〜、実はさっき一回こっちから声かけたんですけど、気付かれなかったみたいだったから」

「あら、ちっとも気付かなかった。やあね、年かしらね」

「そんなわけないですよぉ」

笑って掃除に戻りながら、カナは頭の中で、刻み付けるように「茉莉町」と呟いた。一度、調べてみる必要がありそうだ。