IN THE BLUE

クレヨンで塗ったような灰色の雲が、空からのしかかって来ていた。高いビルの上の方はほとんど隠れてしまっている。

これで降水確率を十パーセントと言ってのけた気象予報士の勇気に拍手を送りたくなる空模様だった。もちろん、統計より勘に従って予報するわけには行かないのだろうが。

「科学は敗北するのかあ」

窓から外を見上げ、カナはそんな呟きを漏らした。

心なしか受信状態の悪いラジオから、地元局のお昼のニュースが聞こえている。オープニングトークは、やはり天気の話題だ。

日本列島は全体的に大陸性の高気圧につつまれて、どこも十月らしいすっきりとした秋晴れが見込まれているという。

なのに、このあたりだけ、めったやたらと雨が降るのだ。

まるで夏の夕立のように不意に雲が湧き出して、それでいて、しとしと、しとしとと泣くように細かい雨が降る。

「小金井さん、妙なこと呟いてないで貸し傘出してきて」

「はあい」

笑いを含んだ声に呼ばれて、カナは返事をしながら振り返った。

そこは個人経営の小さな喫茶店だった。白熱電球の赤っぽい色をつけた蛍光灯が照らす室内。ドアを正面にしたカナから見て右手にカウンター、左手に五つの客席を配してある。

内装と外観はアーリーアメリカンだが、オーナーである姫木氏が心惹かれれば何でも置くという方針のために、ディスプレイされている小物には昭和レトロやアールヌーヴォー、そのほか名状しがたい無骨な物などが混ざりこんでいた。統一的な指針があるとすれば、それは姫木氏という人格以外のものではない。ここは彼の趣味の城である。

姫木氏は六十がらみの男性で、四角く刈り込んだゴマ塩頭の、愛想の良いおじさんだ。店にいるときはサスペンダーで吊ったチノパンに腕まくりした白シャツを着ていた。奥さんが亡くなったので会社勤めをする気をなくし、喫茶店を開いてしまったというビックリ宙返りな人生を、カラス皺にえくぼのできる笑顔でおおらかに渡っている。

カナは言われた通り、裏の用具部屋から木製の傘立てを出してきた。既に挿してある数本のコウモリ傘は、雨が振った時にお客さんに貸すためのものだ。

カランコロン、とどこか錆びた音のするベルを鳴らして外に出ると、音に釣られて通行人の目がカナに集まった。そして一瞬カナの上で停滞して、ゆっくりと散って行く。

ウォルナット・コーヒーハウスのファサードは、日本の都市の外観となじまない白いペンキ塗りの木造建築風だ。その玄関を出ると、背の低いライラックが囲む狭い芝生の庭がある。

そんな舞台に出てきたカナは、踝丈のパフスリーブワンピースに簡素なギンガムのエプロンという出で立ちだ。その格好が作り事めいていず、当たり前のように体に合っているから、目にした人はその正体を見定めるまで少しの間、目が離せなくなる。

姫木氏がカナを採用した決め手は、制服が似合うということだったそうだ。

いつもは無言であしらう視線になにか温かいものを感じて、カナは後ろを振り返った。

背の低い垣根越しに、妙齢の婦人と目が合う。

「あ、桜井さん。こんにちは」

見知った顔に、自然と笑顔が出た。近所に絵本専門の小さな書店を開いている女性で、週に一、二回は来てくれる常連客だ。短めのボブカットにした髪は、姫木氏より年上とは思えないくらい艶々と黒い。体の線はやせてシャープだが、ふしぎな模様のデザインシャツがそれを和らげていた。わが道を往く「善き魔女」といった風情の、闊達な人だ。

桜井さんも笑顔を返してくれた。しかし、どこかいつもの勢いを欠いているように見えた。

「こんにちは。いつ見てもその服、似合うわね」

初対面の人が想像するよりも高い声で、挨拶代わりにそんなことを言う。褒め言葉を惜しまないのが桜井流だ。

「ありがとうございます。桜井さんこそ今日も素敵なシャツ着てらっしゃいますね」

気のせいかとにっこりして、カナは少し脇にどけ、桜井さんが入れるようにドアを開けた。桜井さんは微笑み返して中に入ろうとした。

彼女を知っている人からすれば、おやっと思う反応だった。服やアクセサリーにこだわりを持っている彼女は、身に着けているものに関しては必ず何かしらエピソードを持っている。こんな風に水を向けられて、どこでどんな風に見つけたとか、どういう由来で手に入れたとか、一言もないなんて。

カナは思わず桜井さんを、平時は使わないようにしている目線で《直視》した。

肩の上に、何かいる。

あまりはっきり見てしまうと後悔することが多いので、カナはそれ以上見るのをやめた。とにかく、右の肩口から首、耳にへばりつくように、何かがいた。それだけ分かれば十分だ。

「?」

気付いた桜井さんが怪訝そうに立ち止まる。カナがそうする時、どうやら人には魂の抜けたような、かなり不気味な顔に見えるらしい。

「肩のところにゴミが。お取りしますね」

カナは断ってから、彼女の肩をさっと払った。カナの手にはぬめるような生温かい手触りが感じられ、鳥肌が立った。

「何をする」

水を吐き出すような音の混じった声がした。

「あら、ありがとう」

被さるように桜井さんのお礼。普通の人には、何も見えないし聞こえないのだ。何がついていたのか知りたげに下を見た桜井さんに、カナは「糸くずですよ」と教える。桜井さんは納得してお店の中に入ろうとした。

「あっ?!」

声を上げたのは、一歩踏み出した瞬間に、何かが足元に飛び込んできたせいだった。

それはオレンジ色のネコだった。タタラを踏む桜井さんの足を華麗に避けながら、店の中に走りこむ。

「コラ!」

桜井さんを助けようとカウンターから出てきた姫木氏が、猫に気付いて軽く声を上げた。既に壁際まで到達していた猫は、机の脚に頭をぶつけそうになりながらユーターンする。そして当然のように桜井さんに道を譲らせて、また外に走り出ていった。

あっという間のできごとだった。カナだけが、ケモノを猫がくわえ去るのを見ていた。

「大丈夫ですか?」

「ああびっくりした」

声をかけた姫木氏に、胸に手を当てた桜井さんが半笑いで答える。

「すみません」

冷や汗を垂らしながら頭を下げたカナに、彼女は安心させるように手を振った。

「いいのよ、何ともなかったんだから」

「いやあ、猫も人も怪我がなくてよかった。小金井さん、一応、床とそこのテーブル、お願いね」

姫木氏が掃除用具を指したのを見て、カナは返事をしながら、そっと店の前の小さな庭に目をやった。

赤トラの若い猫がエリカの植え込みの陰で何かしきりとハグハグやっている。おそらく、ケモノに止めを刺しているのだろう。

「あの猫、前にもお店の庭で見たことあるわ。姫木さんところの猫なの?」

定位置、カウンターの真ん中に席を取った桜井さんが尋ねる。姫木氏は庭を見るついでにカナを見て、苦笑いした。

「いやー、餌はいっぺんもやったことがないんですけどね。何だか居付いてるみたいなんですよね。今まではどんなにドアを開けてても入ってこなかったんだけど」

その視線を背中に感じつつ、カナは目を合わせられなかった。実はあれは店ではなく、カナについて回る猫なのだ。

「あー……庭で何か食べてるみたいなので、追い払ってきますね〜」

カナは箒を握り締め、店の外へ逃げ出した。