IN THE BLUE

拒絶を感じるほど白い街灯の光に、しっとりと靄がまつわりついていた。袖の無い肘から先をなぞっていく弱い風は、水気を含んで冷たい。世界が早くも夏を忘れた――いや、不意に梅雨を思い出してしまったかのように。

時刻は深夜0時を回ろうとしていた。今日と明日と昨日とが、そ知らぬ顔でせめぎ合う時間だ。人通りはほとんどなく、通りかかる車のヘッドライトは、わき目も振らず、湿ったアスファルトに帰り道だけを照らして過ぎていく。

落合町は、ベッドタウンでもないし街の中心でもない、半端な位置にあった。四車線の国道が通っているものの、賑やかなのは街の中心が働いている時間だけだ。

場所をとっても、時間をとっても、若い娘がぶらつくのに相応しいとは言いがたい。それでも、小金井 香奈(こがねい かな)はそこにいた。

蛍光灯に赤っぽく透ける髪は肩に付くくらいで、卵形の輪郭をふんわりと包んでいる。くっきりしたふたえの目はやや眦が下がっていて、何もしなくとも微笑むような、眠たげな表情に見えた。七部袖の木綿のブラウスに編み目の大きなカーディガンをはおり、下は裾に刺繍の入ったお気に入りのジーンズをはいている。手に持った傘のほかに荷物らしい荷物はなく、警官に見つかったら呼び止められそうな様子だ。不審者として、というよりは、被害の防止のために。

最近このあたりには立て続けに不審者が出没していて、近所に回覧板が回されていた。薄暗い道を歩いていると、背後からとつぜん脚にむしゃぶりついてくるという。出没するのは決まって夜中、男女の別は意外とどうでもいいらしい。今のところ犯人の姿をしっかり見たという証言がなく、警察も注意を呼びかける以上の手が打てずにいる。

しかしカナは、まさしくその犯人に遭うために出歩いているのだった。実は彼女には被害者になることを喜ぶ奇矯な性癖が――というわけではない。身内が被害にあって、復讐に燃えている――ということでもない(どだい、彼女には身内が居ないのだから)。

角を折れて、街灯のまばらな、細い道に入った。寝静まって灯りの少ない家々と、シャッターを立て切った個人商店が静かに並んでいる。

彼女自身、どうして自分がこうして出歩いているのか、考えてしまうことがあった。カナは別に、治安を守ってもお金をもらえるわけではないし、胸に誇りを持てるわけでもない。

住んでいる人しか名前を知らない、狭い道同士の辻に出る。

(だって……)

不意に背後から、じゃぷりと妙な音がした。水でいっぱいの長靴をはいたまま歩くような。

膝の裏に視線。そして風圧。組み付かれるより一瞬早く、カナは振り向きざまの回し蹴りを喰らわせた。

そのための固いヒールが風を切って標的にめり込む。

(仕方ない。こういうのが、見えちゃうんだもの)

気色の悪い音を立てて地面に倒れた『それ』を、カナはすかさず畳んだ傘で殴打した。アスファルトの上で、『それ』はビクリと痙攣し、手足をわたわたと振り回す。カナはそれをよけて飛び退った。

倒れていたのは、人間ではなかった。

この世のどんな動物とも言いがたい。骸骨を思わせるつるりとした顔、後ろ足は象のよう、対照的に指の長い前足には水かきがあり、体は半透明で、血管と内臓が透けている。意味不明なところからトサカやエラのようなひだが飛び出し、生物学者でなくとも「お前は何に適応したのだ」と問い詰めたくなる姿だった。

これらの生き物――現世と重なった無数の並行世界から流れ着く、ケモノたち。異界渡りの抵抗に耐えられずに変容し、醜く奇怪な姿になってしまった哀れなものが、見えてしまうから。

カナは生まれつき、こういう生き物を見る力を持っていた。触れる力も持っていた。だからといって、誰に退治を頼まれたわけでもないけれど。

(見る力があったことより、無視できない性格に生まれついたのが運の尽き、ってところかな)

カナはいつものように自答した。両手で傘をかまえて、相手の急所を見定めようと視線に力を込める。コンビニ謹製のビニール傘は、最初の一撃で既に骨が曲がってしまっていた。次で何とかできなかったら、後は素手で対応するしかない。自分の傘を壊すのが嫌だったのでわざわざ購入したものの、強度のことを考えなかったのは失策だった。

ケモノはぴくぴくと腕を痙攣させているが、起き上がるそぶりを見せない。しかし、消えないということはまだ「生きて」いるということだ。カナは慎重に近づいて、頭を潰すべく傘を振りかぶった。

その時、ケモノの首があり得ない角度でカナの顔を振り仰いだ。突然の機敏な動きと、予想外に視線を合わされたことに思わず怯む。しまった、と思った時には、ケモノが象のような脚で低く飛び跳ねていた。

振りかぶった姿勢の胴体にがっぷりとぶつかられ、カナはなす術もなく倒れた。地面に突いた傘がたわんで、ぼっきりと折れる。手に衝撃が伝わってじんじんと痺れた。次の瞬間、肩と腰の骨がアスファルトにまともに激突する。

「いっ……!」

声を途中で飲み込んで、カナはのしかかっているケモノから逃れようともがいた。しかし、長い指が太ももをしっかり掴んでいて、逃げ出せない。ジーンズが湿ってくるだけでも気持ち悪いのに、水かきでラップされる感触は最悪だった。

これまでの被害者の中には、「転ばされた後」を体験した者はいない。転ばされたときに手荷物で殴ったら逃げて行った、というのが全てだ。そしてどうやら、カナの直感が正しければ、このケモノはカナの脚をちぎろうとしていた。

人間の関節には許されない方向に捻られ、股関節がポキポキと音を立てる。同じ方向に体をひねって避けようにも、上に乗られているので限度がある。カナはねじれた体勢から起き上がって殴りかかれるほどの肉体派ではなかった。

脚を取られる。

カナは人間の声とは違う領域で悲鳴を上げた。

『助けてよ、ダン!!』

世界と世界の狭間に放たれた波が消えないうちに、応えはあった。

カナとケモノのすぐ隣、それまで夜闇がわだかまるだけだった空間に、湧き出すごとく獅子の鼻面が現れた。稲穂の色の鬣がたなびく。

威嚇する間もあらばこそ、白い牙がひらめき、ごりっと骨を砕く音とともに強靭な顎が閉じられた。

獅子の頭がカナをまたいで反対側に降り立ったとき、ケモノの頭がなくなっていた。

一拍遅れて、靄が風に散るようにケモノの体が崩壊する。

それを見届けて、カナは安堵のため息をついた。上体を起こして、筋が変に伸びてしまった脚の付け根をさすりながら、現れた助け手を恨みがましい目で見る。

件の相手は、カナの横にいた。その頭はゆたかな黄金の鬣を持ち、スイカも丸呑みできそうなほど大きい立派な獅子だった。

しかしその体は、いっそ貧相と言うべき赤猫だった。どうやって頭を支えているのかは不明だ。濡れて細くなったシッポを前足に巻きつけて、ちょこなんと座っている。

「なんで頭だけ……」

カナは別のことを言おうと思っていたのに、思わずそこに突っ込んでしまった。獅子はやにわにクワっとあくびをする。ぎょっとするほどの迫力が、見る間に縮んで、ただの猫の頭になった。

『面倒くさかったんだもん』

猫は軽やかな声で答えた。猫らしく視線をそらして、けだるげに背中を丸める。

ダンもまた、ケモノだった。自由に世界を行き来し、意識を保つことができるくらい強力な。普段は猫に身をやつして暮らしているので、その世話をする代わりに、カナはダンに守られている。

『今日はおしまい?』

続けてダンが尋ねた。

「うん」

答えながら、カナはもう一言、もっと早く助けてよと文句を言おうかと思った。が、その時ダンがカナに寄ってきて、肘のあたりにすりっと耳をこすりつけた。背中、わき腹で腕をなぞり、シッポを絡ませて、とんとんと後ろ足で足踏みをする。カナの手の甲を踏んでいるのは承知の上だ。

『じゃあ、帰ってカツオブシ食べよう。開けたてのやつ』

「私は食べないけどね」

カナはその頭を撫でてて、全ての言葉を飲み込んだ。

水を吸っているかと思えるほど濃かった靄は、いつの間にか少し薄らいでいた。