IN THE BLUE

それから数日が経った朝のこと。その日は夜明け前から小雨が降っていた。天気が崩れる崩れると二週間も言い続けた気象予報士はほっとしたことだろう。

いつものように登校したリリは、机の中に手を入れて、首をかしげた。

いつもなら入っているはずの、交換日記がない。

リリの学年では、表向きの付き合いにミクシィやフェイスブックを使うが、本当の友達とは、オフラインで交換日記を回すのが流行っている。リリとカレンも、他の何人かと一緒に交換日記を使っていた。ルリが来てからはルリも混ぜて。

思わずカレンの席を振り向くと、机の横には既にカバンがかかっていた。ルリも、と思った時、嫌なものが目に入った。

すぐ前のルリの席の、机の中。無印良品で買ってきたノートを、カレンが色とりどりのペンやシールでデコレーションした交換日記。

(わたしのこと、抜かしたの?)

ドスンと胸に錘を乗せられたように、リリは自分の椅子に座り込んだ。

さー、さー、さー

教室のざわめきは聞こえない。雨のノイズで頭がいっぱいになった。何がいけなかったんだろう、どうして嫌われたんだろう、と問うばかりで、全く答えが見つからない。

「リリ、おはよー」

「おはよ」

カレンとルリが連れ立ってやって来た。二人とも、いつもの笑顔だ。いつも、この裏に、何か隠れていたんだろうか。

「……おはよ」

リリは何とか微笑んで返した。ここで怒ったりしたら、余計に嫌われるかもしれない。

「昨日の『やまカワ』見た?」

カレンは何のてらいもなく、お気に入りのドラマについて話し始める。リリはその番組を見ていないので、受けるのはもっぱらルリの方だ。

カレンは妙なところに凝り性なので、BGMのチョイスがどうとか、セリフの間がどうのとかいう話を、ルリに促されるままに喋っていた。

丁度よかったので、リリは適当に笑いながら、黙っていた。下手なことを言って知ったかぶりと思われたら、もう話してすらもらえないかもしれない。

そんな調子で、リリは一日を汲々として過ごした。カレンとルリの顔色を伺って、不快なことを言わないようにしていると、いきおい、ほとんど黙っていることになる。

一番の打撃は帰りだった。掃除当番が終わって、カレンとルリは当然のように「帰ろう」と言ってきた。

けれど、それは当然のように、「断れ」と言っているように見えて。

「わたし……寄るとこ、あるから」

リリは上目遣いをやめようと必死になりながら、やっとその言葉を搾り出した。

カレンとルリはちょっと考えるような顔をしたけれど、すぐに「そうなんだ?じゃ、また明日ね」と言って連れ立って帰って行った。

雨は次第に強くなって来ていた。傘に当たって雨粒がバタバタと打ち抜くような音を立てる。足元はほとんど水没状態で、ローファーの中が湿っぽかった。

そんな状態でも、リリは放たれた矢のように青ヶ池公園へ向かった。

階段を降りると、薄暗い雑木林の中で、青く色づき始めたアジサイの花が街灯のように道を示す。駆け足でその道を通り抜けたリリは、池のほとりに出て急ブレーキをかけた。

コンクリートの岸壁が消えうせて、代わりに濃いも薄いもとりどりのアジサイの花がぼんぼりのように池の周りをかこみ、緑の葉がずっと水面まで迫っていたからだ。

東屋が沈んでいて、睡蓮が透明な水の中で揺れていた。よく見ると岸壁も消えたわけではなく、水没しているだけのようだ。

(また、夢だ)

リリはすとんと納得して、湿り気をおびた草を踏み、水辺に近寄って行った。

池の中にはあの水蛇がいる。

水蛇の立てる波が打ち寄せてつま先を濡らした。あいかわらず、この池の中に囚われて、ぐるぐると泳いでいる。

「かわいそうに」

リリが呟くと、聞こえたかのように岸のすれすれを掠めた。

いったん口を開いてしまうと、言葉は次々とまろび出た。

「ねえ、わたしの守護獣になって。小説の主人公みたいに。そうしたら、わたしにもきっと、もっと素敵なお話しが待ってる」

リリの声は、風の音一つしない夢の空に響いた。すると、対岸の方に離れていた水蛇が、急に向きを変えた。

水蛇はリリに向かって一直線に向かってくる。その背びれが水面を切り、水しぶきをあげた。

リリは恐くなって後ずさった。水蛇は迫る。リリは根が生えたように動けず、ただ腕で頭をかばった。

水音とともにザリザリっと音がして、リリは頭から水をかぶった。

制服がびしょ濡れになったけれど、跳ね飛ばされたりはしなかった。

おそるおそる目を開けたリリのすぐ隣に、大きな水蛇の頭があった。いつかテレビで見たアナコンダより何倍も大きい。リリの頭ぐらい、ちょっと口を開けばパックリ飲めそうだ。

水中に体の半分を残したまま鎌首をもたげた水蛇は、赤紫の舌をちらつかせてすばやくリリの頬を舐めた。ひやりとして柔らかい感触だった。

リリは舐められた頬をとっさに手で押さえて、じっと水蛇を見つめる。

水蛇の体は真っ白だった。平たいのかと思いきや、イルカのようにがっしりしていて、リリ一人くらいなら乗せて泳げるだろう。

発達したエラの形が、どこかアジサイの顎を思わせる。目は群青色。これもまた、アジサイの色。

「わたしは、リリ。あなたは……ハイドランジア」

リリがアジサイの学名を思い出してそう言うと、水蛇は承諾の印のように、目にも留まらぬ速さでもう一度リリの顔を舐めた。

『リリ』

空気の漏れるようなかすかな声でハイドランジアが応えた。リリは頷く。これがリリの良く知るお話しならば、ハイドランジアは名付けた主人公のものだ。

『お乗りなさい』

ハイドランジアがそう言って池の方を振り返り、リリに背中を見せた。リリがためらいがちにその背にまたがると、ハイドランジアはするりと池の中に体を沈めた。

背後でハイドランジアの尾が何度も力強く陸地を打つ。リリも一緒に足をけって、水の中に漕ぎ出した。

夢の中だから、水中でも息ができる。しかし目だけは、水流が強くて開けていられなかった。

『ワタクシの背にいる間、リリは目を開けていてはイケませン』

それを察知したかのように、ハイドランジアが言った。

水の中で聞くハイドランジアの声は、トロリと柔らかく心地よかった。男とも女ともつかない、微妙な高さの声だ。

「どうして?」

リリの声は笑えるほどあぶく交じりだった。夢なのにままならないものだ。

『水流で目がつぶれてシまうノです。リリの目ハ、夢の水に耐エルにはアまリにも柔らかイ』

簡潔な答えに、リリは頷いた。

『どこへ行きマショウ?』

ゆったりと右旋回を続けながらハイドランジアが尋ねてきた。リリはちょっと考える。

「あなたは、どこから来たの?」

『水源かラ。リリとは違う世界からでゴザいまス』

「……遠い?」

『とてモ。本当ナら、リリの存在を知ルことすら、でキないほドニ』

リリのバカバカしい質問にも、ハイドランジアは真面目に答えてくれた。

「行ってみたいな」

ぽつりと呟く。

『イツカ』

ハイドランジアの声がわずかに熱を帯びた。そんな風に、一緒にいることを許してくれる者のあることが、リリの心を温めてくれた。

「連れてって、ハイドランジア。ここじゃない所に」

リリの一声で、ハイドランジアが速度を上げた。円の運動を振り切るべく、力強く尾びれを振るう。

水蛇がぐいと身をよじった。その瞬間、何かの線を引きちぎったのがリリにも分かった。

ハイドランジアはどこまでもどこまでも潜っていき、ついにコンクリートの護岸を突き破った。