地形的に言うと、青ヶ池公園は二つの丘が作った谷間にある。まわりはすっかり造成されて住宅街になっているが、青ヶ池公園にはふんだんに緑が残されていた。
丘の上に遊具や花壇を配した広場があり、そこから階段を下りていくと、林の中を抜けるちょっとした遊歩道があって、青ヶ池へ続いている。
遊歩道のまわりには所狭しと湧き出るようにアジサイが茂っていて、花の季節は、ちょっとした異世界のようになる。そういうところが、リリは気に入っている。
九月ともなれば、花は残っていないだろう。そう思って階段へ向かったリリの目に、ちょっと驚かされる景色が映った。
石段の先に、鮮やかな緑のアジサイの花が見える。
アジサイというのは、花期の間に刻々と色を変える花だ。咲き始めは緑、だんだんと葉緑体が分解されて白、そこから土壌に合わせて鮮やかに発色し、やがて花が老いるとともに色素が分解されて、くすんだ暗い色になっていく。
遅く咲いた花がいくらか残っているならまだしも、これから色づくほど新しい花があるなんて、意外だ。リリは誘われるように階段を降りて行った。
完全に降ってみると、花をつけているのは一房や一株といった話しではなかった。遊歩道に沿って植えられたアジサイの茂み全体が、まるで初夏のように新しい花房を抱いている。その間にはたしかに古い枯れた花もあるのだが。
雲から滲んだ鈍い夕日が、うっそうとした雑木の樹冠にまとわりついている。ぼやけた影だけが落ちてきていた。
その不気味さを味わいながら、リリはゆっくりと青ヶ池へ降りて行った。頭の中を空想でいっぱいにして。
たとえば、先ほどのアジサイは世にも珍しい秋咲きの新種で、学会に届け出たリリは発見者として脚光を浴びるとともに、このアジサイの遺伝子を研究すべく飛び級で大学に入ることになる。
空想はいつも心を慰めてくれた。尽きせぬ『たとえば』に誘われて、素敵なお話しの中をさ迷っているうちは、どんな悩みからも解き放たれている。
たとえば、あのアジサイは悪魔の撒いたもので、若い娘の魂を狙っている。そして目を付けられたリリを助けるために、ちょっと翳のある退魔師の青年が現れる。
たとえば、実はあの花が見えているのはリリだけだが、これが咲いたのをきっかけに、茉莉町でどんどん不思議な事件が起き始める。共通点は、異変が起こる場所に季節はずれの花が咲くこと。ただ一人異変を察知できるリリは、原因を究明するために東奔西走することになる。
たとえば、たとえば……。
池のほとりに出て、視界が開けた。林から出た遊歩道をゆるやかに下った先にぽっかりと、ヒシャげた形の池が。
岸はコンクリートで固められ、人が落ちないように柵が張られている。「この池で泳いではいけません」という看板があり、その近くから人工的に作られた島に向かって木製の橋がかけられていた。
水の面は、わずかの間に色を失った曇天を映して白い。
島の東屋へ行ったら、雲の上の王国にいるような気分を味わえるだろうか。
リリは島へ向かい、橋の上でふと、柵のそばまで行ってさざなみに揺れる睡蓮の葉を見下ろした。
近くの水は暗く透明で、水底の泥の色をしている。わずかにヘドロの臭いもしていた。
その時、何か大きな生き物が睡蓮の下を横切って泳いでいった。
睡蓮の花のように白い、水蛇のような。
リリの頭のどこかで、『これは夢だ』と言葉以上に明瞭な直感が働く。そうでなければ公営の池にあんな生き物がいるはずがない。
リリはその生き物を追って橋の反対側に移り、姿が見えないかと首をめぐらせた。水面下の風のように波の線を引きながら、東屋のまわりを旋回している。
その生き物が橋の下を通るたび、リリは追いかけて、その正体を確かめようとした。けれど泳ぐのが速すぎてほとんどなんだか分からない。
水が灰色に見えるほど白い体をくねらせながらあっという間に遠ざかっていくけれど、紐でもついているかのように、必ず戻ってくる。
水蛇はいつまでもそうしてグルグルと泳いでいた。
リリはその様子を哀れに思った。あれは、囚われていてどこにも行けないのだ。
(かわいそうに)
声に出さずに、リリは思った。
それから、空が暗くなってきたので、離れがたい気持ちを抑えてもと来た道を引き返した。こんな時、まして夢なら、門限や身の安全なんてどうでも良さそうなものだが、習慣と言うのは根強い。
階段を上りきって、遊具のある広場に戻ったとき、リリは願をかけるように、振り返りたい衝動をこらえた。振り返らなければ、あのふしぎなアジサイは明日も明後日も咲いているかも知れない。
だから、リリは見なかったのだ。階段の下の茂みには、死んだような茶色い花骸しかなかったのを。