IN THE BLUE

六時間目の最後の五分というのは、集中しておくのが難しい。特に、ドアの外で待機している担任の先生が窓越しに見えたりすると。

社会科の先生がまだ喋っていたけれど、どうせそういう所はテストには出てこない。

「谷中ぁ、まだ授業中だぞぉ」

ぼんやりしていた凛々(リリ)は、先生に名指しされてはっとした。よほどボケっとした顔をしていたようだ。周囲からクスクスと笑い声が漏れる。

「す……すみません」

リリは消え入るような声で答えて、耳が熱くなるのを感じながら居住まいを正した。

そのとき、丁度良くチャイムが鳴った。

キーンコーンカーンコーン……

先生が「じゃあみんな、次回は気をつけるように!」と言い残して日直に合図する。

日直が「礼」と言うのとほぼ同時に、爆発したようなざわめきが教室からあふれ出した。グループワークをしていたので、机やイスの脚のブラスバンドもひときわ盛大だ。

ざわめきの中で、社会科の先生と担任の先生が軽く会釈をしあって入れ替わる。

六人分の机を向かい合わせた長方形から解放されて、リリはホっとしながら窓際の定位置に戻った。

窓から見えるのは学校の塀と、単調な住宅街の風景だ。

灰色の雲と夕日が戦って、空は赤茶けた汚い色に染まっていた。真っ黒なカラスが我がもの顔で声を張り上げながら飛んで行く。どことなく不吉といえば不吉。けれどここは世界に名立たる平和ボケの国で、現実には何も起きないだろう。

「リリちゃん」

いきなり声をかけられて驚くと、前の席の琉璃(ルリ)がプリントを持って振り向いていた。いつの間にかホームルームが始まっていたのだ。

プリントを受け渡す瞬間、ルリが意味ありげな微笑を浮かべた。リリは微笑み返すのに失敗して、小声で謝りながらとっさに目を下にそらす。

他の列はもう最後の人にプリントが回るところのようだった。申し訳ないな、と思いながらリリは自分の分を取ってプリントを後ろに渡した。

前に向き直った直後に、制服のポケットの中で携帯電話が震えた。リリは一瞬びくっとして、先生の様子を伺う。プリントを配られたばかりの教室はざわついていて、先生はバイブの音に気付かなかったようだ。

リリの電話はいわゆるガラケーだ。プリントに隠してこっそりサイドボタンを押すと、花恋(カレン)からメールと表示されていた。

カレンはリリの三つ後ろの席に座っている。

リリは再び上目で先生を盗み見てから、なるべくそっと携帯を開いた。

『谷中ぁ、まだHR中だぞぉ』

どれだけの速さで打ったものなのか、こんな短い文面なのに絵文字が三つも使われている。相変わらず、カレンのメール打ちスキルには驚くべきものがあった。リリは微笑して携帯をポケットに戻した。丁度、先生がHRの終わりを告げたところだ。

周囲の教室から机を下げる音が聞こえ始めた。日直の号令とともに、リリたちのクラスも大合奏に加わる。

リリは掃除当番なので、箒を取りに掃除用具のロッカーへ向かった。使いやすい箒を物色していると、カレンが教室から出てきた。

森本花恋(モリモト カレン)は、やや狐目で色白の美人だ。眉はきりっとした形に整えてあり、真っ黒なワンレングスの垂髪を片側だけ何列も編みこんできたりする。

片や、リリはというと、昭和時代の女学生のような二つお下げに検査不要の膝丈スカートという、いかにも真面目な風体だ。全くタイプが違う二人だが、小学校からの友人である。

「あ、リリ、かえろー。めっちゃお腹すいたー」

カレンが肩にカバンをかけてあっけらかんと言った。

「カレンちゃん、今日うちの班、掃除当番だよ」

「えっマジ?素で忘れてたんだけど。えー」

大げさに顔をしかめて、カレンがばちんと自分の頭を叩いた。リリのもそもそした声と違って、カレンの声は針金のようによく通る。

カレンは「もー、言わないでよー」と言いながら、カバンを廊下にぽいっと放り出した。

リリは曖昧に笑いながら何か面白いことを言わないと、と必死に考えた。けれど言ってもしょうがないようなことしか思いつかなくて、ただひたすら、間抜けのように笑う。

「カレン、さぼんなよ」

その隙に近くにいた男子生徒がカレンに話しかけた。カレンは顎をあげて「うっさい、ちゃんとやるし」と返す。

談笑する二人を置いて、リリはそっと退散した。男子生徒は声が大きくて怖いし、値踏みするような目で見てくるし、理解できない生き物なのでどうも苦手だ。

一通りの掃除が終わり、用具を片付けると、掃除当番の生徒はだらだらと嫌そうな顔で教室の後ろに集まった。

これから、ゴミ捨て当番を決めなければいけない。昨日は、さっきカレンに話しかけていた男子生徒が箒でごみを押し込んで事なきを得たのだが。

誰も進んでやるとは言わないので、当番はいつも公正なじゃんけんで選ばれる。

「出さなきゃ負けよ、最初はグー!」

ムダに勢いの良い掛け声とともに、七人の手が出揃う。なんと六人がパー、一人だけグー。

「ぎゃー!」

グーを出したカレンが頭を抱えて叫んだ。他の生徒たちがその過剰なリアクションにどっと笑う。淡白な何人かは、笑いながら去って行った。

「マジ最悪マジ最悪、ありえないんだけど!!」

カレンはぐるぐる回ってみたりしながら大声で不平を鳴らす。廊下を通りかかったほかの組の生徒が目を丸くしてこっちを見るくらいだ。

カレンと仲の良い男子が笑いながら「うるせえよ」と言ってその頭を軽くはたく。

「なーんでー?みんなパーとか。ないから!こんなとこでクジ運使い切って後悔すればいいのに」

やっと踊りまわるのをやめたカレンは、恨めしそうにゴミ箱を見た。側面がやや膨らんで見えるくらいギシギシに詰まったゴミを連れ、えっちらおっちら校庭を突っ切って、体育館裏のゴミ捨て場まで持っていかねばならない。

「これからCD買いに行くのにー」

ボヤくカレンにまあがんばれ、と声をかけて、残りの掃除当番たちが引き上げて行った。

リリは、そこから動かずにいる。

カレンがいつまでもぐずぐずしているリリに気付いて、目を向けた。

「あの……」

リリはゴミ箱を見ながら、口を開いた。

「良かったら、代わろっか?……わたし、この後、べつに何もないし……」

「え、いいの?」

カレンが驚いたような声で尋ねた。リリは「うん、暇だし」とこっくり頷く。

「ラッキー。ありがと!」

カレンはこういう時、遠慮するような性格ではない。さっと踵を返して、いなくなってしまった。

「あれ、カレン、ゴミ捨ては?」

廊下からルリの声がした。カレンが「なんか、リリが代わってくれた」と簡潔に答える。

リリには、その声音が不思議そうであることよりも、ルリがさりげなくカレンを呼び捨てにしたのが気になっていた。ついこの前までは「ちゃん」付けで呼んでいたような気がするのに。

「じゃあ……待ってる?」

ルリが気の進まない声音で尋ねた。カレンは案の定、「いいんじゃない?」と答える。

リリはその声を掻き消そうとするように、ゴミ袋をがさがさと引っ張った。太りきったゴミ袋はつっかえてしまってなかなか出てこず、立てようとしなくたってかなり騒がしい音がしたのだが。

(なんでこんな、でき損なった物語が許されるんだろう)

リリは涙をこらえて、鼻をすすりあげた。

ルリが転校してきたのは、二年生になったばかりの五月だった。先生の説明によると、親の仕事の都合で引っ越してきたらしい。住んでいるのは学校から自転車で二十分くらいの住宅街だ。ちょっと古いアパートやマンションが多いあたり。

「本を読むのと音楽を聴くのが好きです」

と言って自己紹介したルリは、小柄なのもあって大人しげな印象を与えた。

特に大都会や進学校から来たわけでもなく、ことさら可愛くもない転校生は、ほどほどの好奇心をもってクラスに迎え入れられた。

リリは本が好きという一言に親近感を覚えた。ほんのり、友達になれるかもという期待を抱きはしたものの、結局は人見知りなので、話しかけてみるつもりはなかったのだが。

しかし、それを見抜いたように先生が言ったのだ。

「何かあったら、谷中に聞けば教えてくれるから。な、谷中?」

突然にさっくり呼ばれたリリは、びくっとして、思わず助けを求めるようにカレンを見た。当時、カレンは二列向こうにいたのだ。

「自己紹介しろー」

容赦なく先生が声をかけて、スタンダップ、と言うように手を上下に振ったので、リリは逆らえずに腰を浮かせた。

「あ……谷中、凛々です。図書委員です……よろしく、お願いします」

しどろもどろになりながら、精一杯の善意をこめて何とか微笑んだリリに、ルリはしっかり笑い返してきた。

一人の帰り道を、リリは苦い気持ちでトボトボと歩いていた。頭の中では、同じ考えばかりがぐるぐると回っている。

リリは決して最初からルリが苦手だったわけではなかった。最初はむしろ好きだったのだ。仲良くなりたいと思ったし、ルリが新しいクラスに早く溶け込めるようせいいっぱい気を使ったつもりだった。

そう、最初はとてもうまく行っているように思えたのだ。たぶんちょっとだけ、うまく行き過ぎた。

ルリはいつの間にか、リリよりカレンと仲良くなってしまった。

リリはルリにとってこの学校で最初の友達のはずなのに。

リリはカレンにとって、ルリよりずっと旧い友達のはずなのに。

(……こんなこと、考えてるわたしは、醜い)

でも、悲しいものは悲しい。

そうやってずっと、ぐるぐるしている。

ほとんど意識しないまま、いつもの帰り道を四分の三以上過ぎていた。交差点の赤信号で止まって初めて、そのことに気がつく。

学校の方から来て、茉莉町三丁目の交差点をまっすぐ西へ行くとリリの家、南へ下りると青ヶ池公園だ。

公園へ行くというのは良い思いつきだった。青ヶ池公園は、よく外国人の失笑を買うようなテキトーな遊び場ではない。いきおい丘を一つ抱きこめるくらいの規模がある、それなりにデザインされた公園で、リリのお気に入りスポットの一つだ。

リリは信号を待たずに左へ曲がった。

このとき信号を待ってすぐに帰れば良かったと、何度も思い出すことになる赤信号を。