IN THE BLUE

カナはリリをつれて、そっと《境界線》をまたぎ越した。そういうやり方もある。目をつぶっていれば。

夢の中の青ヶ池公園はほとんど水没してしまっていた。睡蓮がどこまでもどこまでも光を求めて伸びて、不気味なツタのカーテンを作っている。アジサイは熟れすぎたような青紫色の頭を波にあわせてゆらゆらと揺らしていた。

「ハイド!どこ?」

リリはアジサイを掻き分けて、公園の隅々まで届くように呼ばわった。

しばらくして、ツタの間をすり抜けながらハイドランジアが泳いで来る。

しかしハイドランジアは、カナの姿を見るなり方向を変えた。警戒するように高度を上げて、ぐるぐると旋回する。

『リリ、そのケモノかラ離れナサイ』

ハイドランジアはこれまでに聞いたことのない厳しい声で言った。リリはつい、従いそうになる。

(ハイドランジアを失ったら、何も残らない)

「リリ」

急に、カレンの声がした。

「リリちゃん」

振り向くと、隣にルリもいる。リリは困惑した。

「目、痛いの大丈夫?」

「いつも守ってくれてありがとう。リリが一番の友達だよ」

カレンは真実心配そうに、ルリは尊敬の眼差しで、それぞれリリの腕をとった。自分の腕を自分で掴んでいるような、奇妙なぬくもり。

「あっちに行こう、リリ。いいじゃん、知らない人の言うことなんかほっとけば。リリの話し、聞きたいな。うちらに言ってないこと、けっこう一杯あるでしょ」

カレンがそう言ってリリの腕を引く。一番言って欲しいことのはずなのに、リリは違和感を無視できなかった。

「なんで、突然……二人とも、変だよ。それに、わたし……ハイドと話さなきゃ」

「変じゃないよ?」

「リリちゃんとハイドランジアの話しが聞きたいな」

リリを全く無視して、二人はぐいぐいと腕を引っ張ってくる。リリは引きずられていきながら、ハイドランジアの姿を探した。

けれど、ハイドランジアどころか、誰の姿も見えない。

二人の腕を外そうと体をひねったところで、リリは痛みに悲鳴を上げた。

左目が燃えるように熱くなった。抑えようもなくボロボロと涙がこぼれる。ひょっとすると血かも知れない。

痛みは容赦なかった。リリは倒れて転げ周り、なきながら悶えた。

「リリ、逃げて!」

「リリちゃん!」

カレンとルリがリリの手を取ろうとするが、リリは左目を押さえるので必死だ。

リリがしつこく伸ばされる手を払うと、霧散するように消えた。

(ハイドに何かあった)

脳みそまで貫き通すような痛みの中で、リリは必死に意識を保った。洟をすすり上げて、右目を隠している眼帯をちぎるように外す。痛みでかすむ右目に、ダンに組み敷かれたハイドランジアが見えた。

(痛い)

リリはふらつきながら起き上がって、精一杯の速度で二匹のケモノのところへ向かった。

「やめて!放して!ハイドを殺さないで!」

リリは叫びながらダンに向かって拳を振り上げる。ダンはハイドランジアの首根っこをあっさりと放して引き下がり、汚いものをすすぐように半分口を開けた。

リリは苦しげにエラを動かしているハイドランジアの上に体を投げかけた。

『リリは……独りガイイ……リリは、ワタクシと一緒ガいい』

うわごとのように、ハイドランジアが呟く。

そのひんやりした鱗に額をこすりつけるようにして、リリは首を横に振った。

「わたしを、殺してください。ハイドはだめ」

(空っぽなわたしの方が、死ねばいい)

言ってしまうと、心が楽になった。

「断る」

甘い陶酔を打ち壊すように、カナが断言した。

「なんて言うと、悪役っぽくて嫌なんだけど。でも、それって、あなたの責任だから」

カナはダンの隣に来て、腕を組んだ。見透かされるような気がして、リリはその目を見上げることができない。

(目が潰れるのだって、怖かった。死ぬのは、もっと怖い)

汚い本音を言えば、そうだった。

(もっと……素敵なお話しが待ってるはずだったのに)

リリはハイドランジアの体に額をつけたまま、目を閉じた。頭の中が全力で、ハイドランジアの非を探している。どうにかして、自分が生き延びてハイドランジアを殺すもっともらしい理屈を探している。

「あなたが生きるために、その水蛇が死ぬの。その責任を誰かに被せてはダメ。あなたが、あなたのために、自分で殺しなさい」

怜悧なまでにはっきりと、カナが言った。

「……優しくしてくれたの。一人ぼっちで辛かったとき、ハイドが生き延びさせてくれたのに。こんな風に、都合よく利用してやろうと思って一緒にいたわけじゃなかったのに」

震える声で並べた言い訳に応えはない。

(だってわたし、人を叩いたことすらない)

『けど、スーパーのお肉は食べる』

心を読んだかのように、涼やかな声がした。リリはぎくりと身をこわばらせる。

スーパーで売っているお肉や野菜のために、こんな感覚を持ったことはなかった。

自分が生き延びるために、他から命を奪っている。これまでもそうして来たし、これからもそうして行く。

他に道がないからだ。

神様でも天使でもなく、一匹の獣として生まれたから。