IN THE BLUE

リリは、地面に叩きつけられたような気持ちで目を覚ました。心臓はバクバク言っていて、体中に寝汗をかいている。時計は朝の五時を指していた。

(……夢)

思わず、卓上カレンダーを確認した。ひょっとして今までのことは全て夢だったのかも。

じくじくと痛み始めた左目が、そんなことはないと主張した。

リリは起き上がって、洗面所に向かう。

鏡に映してみると、虹彩が群青色になった左目は血走って、瞼も少し腫れていた。触ると刺すような痛みがある。

(ハイドの怪我が写ったんだ)

リリはおそるおそる下瞼をなぞりながら、考えた。

(そんなの、聞いてない)

初めて、怖さに震えが来た。自分勝手だとは思ったが、怖いのは止められなかった。もしもハイドランジアが殺されたら、リリの左目は潰れるのだろうか。異世界を見る楽しみは失くして、ただの腫れて痛む厄介な目だけが残るとしたら。

リリは自分の部屋に駆け戻って、頭から布団を被った。なんとか夢の中に戻って、ハイドランジアを逃がさなくてはいけない。

努力も虚しく、リリはまんじりともしないまま起き出す時間を迎えた。そしてうっかり眼帯をしないまま居間に出て行き、兄の博隆に病院へ連れて行かれた。当然、原因不明と言われて、「ものもらいかもしれないから」と抗生剤と目薬を持たされて帰されたのだが。

午後から学校へ行くと、カレンとルリは表面的に心配の言葉をくれたものの、どことなくよそよそしい雰囲気をまとっていた。

リリはまたオドオドした自分に戻るのを恐れて、ことさら機嫌を取り結ぼうともしなかった。

(なんで、私がこの人たちにおべっかを使わないといけないの?この人たちこそ、私の機嫌を取らなかったら、うなされて困るくせに)

心の中でそう自分を励まして。

授業が終わると、リリは駆け足で学校を後にした。

向かうのは青ヶ池公園だ。ハイドランジアが最初にいた場所。

あそこにいけば、もう一度、白昼夢に入っていけるに違いない。

「来ると思ってた」

敵は、階段を降り切った死角に潜んでいた。

今度は笑っていない。リリは射すくめられたように立ち止まった。

何度も何度も現れる、怖い人だ。待ち伏せされていた。

肩にかかる細い髪は目と同じやわらかな茶色。背はそれほど大きくなく、色白で、真顔なのにどこか微笑むような目元をしている。

(怖い……人?)

まじまじと見るにつれて、最初の不吉な印象がもやのように晴れていった。町で見かけたら、ただ優しそうな人だと思ったかもしれない。

「逃げないで。大事な話しだから」

穏やかにその人は言った。リリは逃げる気をなくして、黙ってその顔を見つめる。

「分かっててやってたら私は怒るんだけど、夢を見てる時に何か突き破ってる感じがしたこと、なかった?」

「……あり、ました」

リリは少し怖くなりながら、頷いた。

「何を壊してるか、知ってた?」

穏やかな口調のまま、重ねて問われる。リリは首を横に振った。

「壊してたのはね、夢と現実を分けた《境界線》。どんどん壊していったら、現実が消えてなくなってしまうものなの」

天気も変だし、治安も悪くなってるでしょ?と言われて、リリは目をしばたいた。確かに、交通事故の話しをよく聞くし、変質者が出たとか、泥棒が入ったとかいう話しもしょっちゅうだったが、そんなものかと思っていたのだ。

「あれは《境界線》の綻びから異世界の生き物が入ってきてるせいなんだよ。たいていは目に見えないけど、心や体に影響を及ぼすの。あの水蛇は少なくとも、知ってたんじゃないかと思うけどね」

それまで穏やかだった目つきがわずかに険しくなったのを見て、リリは反射的にハイドランジアをかばった。

「ハイドは悪くない……です」

女の人は、促すように首をかしげる。

「だって、ハイドは……わたしを助けてくれたんだから。壊しちゃダメなものなら、もう壊さないように、します。あの……直せるなら、て、手伝うし……」

「もちろん、直すのは手伝ってもらうつもり。だけど、その前にその左目を何とかしなくちゃ〜ね」

つい俯いて自分の足に向かって話してしまうリリの視線を、白い手が引き上げた。持ち上がった白い手は、ぽんとリリの頭に載せられる。

「その目が綻びの一つだからね。そこから無限に水が入ってくるし、ケモノも流れ込んでくる」

「ハイドに、返せばいいですか?」

リリは泣きそうになりながら尋ねた。夢の中で目を開けていられないのは、本当に残念だ。

「ううん。残念ながら、どっちかが死なないと」

その言葉に、リリは殴られたような衝撃を受けた。

「どっちか、が」

ばかのように繰り返して、目一杯開いた右目で目の前の人物を見上げる。表情一つ変えずに、何を言うのかと。

「そう。無傷で助かりたければね。もし私があの水蛇を殺したら、あなたの目は潰れるよ。目だけで済むかもわからない」

リリの目をじっと見つめて、諭すように言った。

「一線を越えた者は、その世界に馴染まない破壊者でしかないんだよ。穏やかに隣り合っていたいなら、一線を越えてはいけなかったの」

「だって……だって、誰もそんなこと、教えてくれなかった!」

「あの水蛇もね」

苦し紛れに捏ねたダダには、辛辣な言葉が返ってきた。リリは反論できずに、思考停止してしまう。

「ケモノは世界の秩序を読み取れない。その世界の暗黙の言語を解さない。だから、触れるだけで壊してしまうの。

どんなに願っても祈っても、信じても脅しても、それは変わらないよ」

カナは淡々と続けた。

「……人間もね。あなたのハイドはあなたの《境界線》を犯したケモノ。あなたはハイドの《境界線》を犯したケモノ。

相応しい距離を踏み越えたら、お互い食い合う以外に残された道なんかない」

(だから、ハイドはわたしのこともケモノと言うんだ。ケモノという言葉の意味を、知ってたんだ)

リリは震えながら目を閉じる。

「行こうか?言っとくけど、ダンにやらせたら許さない。……それに痛いよ、すごく」