IN THE BLUE

カナは眠ると同時に、夢の中で目を開いた。カナの夢の中は、いつものように仄明るい霧につつまれている。

隣にはダンの姿があった。今は子猫ではなく、金色に輝く獅子の形をしていた。体高はカナの肩までもある。

「ダン、一緒に来て。《境界線》を壊して回ってるのが誰か、分かった。つくろう前に、あの子たちを何とかしなきゃ」

その首に腕を回し、緻密な鬣に顔をうずめて、カナはささやく。

「後で牛肉」

「……う、うん。わかった、あげる」

聞くが早いか、ダンは鼻面で器用にカナの足をすくって背中に乗せた。カナは手で鬣を、曲げた脚で背中をしっかり挟んで体を伏せる。

ダンは夢の暗闇を走り出した。

躍動する筋肉が、霧をかいて上っていく。

「片っ端からおびき出すよ。出てきたのはぜんぶ片付けて」

カナの言葉に、ダンは低く喉を鳴らして応えた。

『その後は?』

「その後に考える」

カナの夢を抜けると、足元を浅く水が流れていた。

誰の夢も宿らないとき、夢世界は荒涼としている。灰色の岩でできた洞窟の中のような感じだ。

乾ききっていて冷たい、無味無臭の空間である。

もちろん水なんかない。それは、異常の表れだった。

ダンはいったん足を止めて、頭を上げて額でカナを振り向いた。

カナは周囲をひとわたり眺めると、ダンに指で方向を示す。

「深い方に」

『泳ぐの嫌いだな』

「どうせホンモノの水じゃないんだから」

ダンは言われた通り、深い方へ歩き出した。あっという間に肩まで水に浸かる。

《境界線》を透過して影を落としているに過ぎないはずの異界の水が、ダンの歩みに合わせて波立つような気配を見せた。

(この規模で決壊したら、直せないかも)

カナはそれを横目に見ながら、冷やりとした。《境界線》の破れた世界は、割れた風船のようなものだ。外も内もなくなって、中に何も留めておけなくなる。

《境界線》の外を夢、内側を現実と呼ぶのなら、《境界線》の決壊とはすなわち、現実がひとひらの夢になってしまうと言ったところか。

「私のすることは正しいよね」

『誰にとって?』

気のない声でダンが問う。カナは前を見つめて、きっぱりと答えた。

「もちろん、私にとって」

『そりゃ、そうだ』

ダンは下らないと言いたげに歩を進める。そうするうちに水面はとうとう、カナの頭も超えてしまった。

リリとハイドランジアは、誰かの夢を荒らしていたケモノを追っていた。口ばかりがやたらと大きな恐ろしい魚だ。それが群れを成して泳いでいた。

二人の狩りは、ハイドランジアが獲物を追いたて、リリがその行く先に穴を開けて夢の外へ追い出すという方法を取る。ハイドランジアが泳いでいる間は、リリは降りて待っていることが多かった。

今度もハイドランジアがまず群れの中につっこみ、注意をルリから逸らした。混乱をきたして散り散りになった群れを、ハイドランジアが爽快なスピードで泳ぎ回って別の場所に集める。

牧洋犬もかくやという手際に感心しながら、リリはその様を見守っている。

群れが集まり、そろそろ良いかとリリが身構えた時、どこからともなく不思議な匂いがただよってきて、リリの注意を逸らした。

ハイドランジアが完全に掌握して操っていた群れも、不意に動きを乱して予想外の方向へ動く。

群れはリリに背を向けて一直線に泳ぎだした。ハイドランジアが後を追っていこうとしたのを見て、リリは思わず呼び止めた。

「ハイド!離れちゃダメ!!」

ハイドランジアは背骨が心配になるような角度で身を翻して、何度か旋回し、それからゆっくりとリリのところへ戻って来た。

「あの魚は?どこに行ったの?」

静かに頭の上で円を描くハイドランジアに、リリは尋ねた。

『香リに誘わレテ、夢の外へ出て行キました』

ハイドランジアの声は心なしかそわそわしているように聞こえた。リリは急に不安になって、ハイドランジアに降りてくるように手招きをする。

『不吉なケモノガ、ケモノを狩り出シテいます』

ハイドランジアは回りながら少しずつ降りてきた。リリが「止まってよ」と言っても、まったく落ち着く気配を見せない。

「止まって」

リリがやや苛立ちをこめて言った時、ハイドランジアは逆に上へ向かって跳ね上がった。

「ハイド!」

リリは驚きながら行く先を見上げて、そこに今までのどれより大きなケモノがいたことに気付いた。

それは金色に輝くライオンに見えた。クマほどもあるライオン。ハイドランジアの突進をかわして、軽快に空を翔る。

その背に乗っている人物を見て、リリは体をすくませた。

(あの女の人……)

学校からの帰り道に、声をかけてきた怖い人。

再び突進したハイドランジアに向かってライオンが腕を振り上げた。ハイドランジアは間一髪で軌道をずらし、そのすぐ横をすりぬける。

(ハイドを殺す気なんだ)

リリはぎゅっと胸を締め付けられるような気持ちを味わった。

ハイドランジアがいなかくなったら。

リリは、また独りになる。

二匹のケモノは、頭を下げた威嚇の姿勢でにらみ合ってはけん制することを何度か繰り返した。ハイドランジアもライオンも牙をむき出し、お互いの目を見合いながらぐるぐると回る。

ライオンが何度目かに飛び掛ったとき、ハイドランジアが一瞬逃げ送れて、その爪が横腹のウロコを何枚か剥がした。

その時、リリの左目に瞼を引き裂かれたような激痛が走った。

「わあぁっ!!」

リリは今までで一番大きな悲鳴をあげて左目を抑えた。

リリは何も見えなくなる。

「ダン、攻撃しちゃダメだ!」

驚いたような、あの女の人の声。直後に、「ギャッ」という声がした。

『ワタクシを殺セば、あの小さなケモノの目は……』

「ハイド?!」

リリはとっさに顔を声の方へ向けたが、痛くて目は開けられなかった。だから、何も見えない。不安と恐怖で涙を流しながら、リリは叫んだ。

「ハイド!助けて!!」

その口を、暖かい手が塞いだ。それと同時に、リリの足元が崩れた。ぐらりと体が傾いて、落ちていく。

悲鳴は封じられて、消えてしまった。