もうできることは何もない。順子(よりこ)はパソコンのモニターの電源をオフにした。細く溜め息をつくきながら、ざらついた布地のオフィスチェアから立ち上がると、血流が足の方で滞っている感じがした。頭の中は、にごっている。
タイムカードを押して会社の外に出る。桃色の夕日が煙たい空に滲んでいるのを見ると、気分が余計にげんなりした。帰り道のオフィス街の景色は一年半ですっかり見慣れ、特に刺激もない。これほど早い時間――ほぼ定時――に歩くことは滅多にないので、それがわずかに新鮮といえばそうだけれど。
アスファルトとコンクリートの上を、ハイヒールのかかとが左右交互に踏みつける。規則正しく青に変わった信号に促されて、車がぼうっと黒い息を吐きながら、じりじりと追い越していった。
本屋の前を通るとき、ふと入り口のポスターが目に入った。地色がこげ茶色なので、夜だったら気付かなかっただろう。歩調を緩める。それは近くの美術館の宣伝だった。
『めくるめくイタリア・ルネッサンス展 県立美術館』
ポスターの中央はやわらかな書体のロゴにほぼ占領されていた。余った部分に展示品の縮小コピーがきらきらと散らしてある。ボッティチェリの『春』やダ・ヴィンチの『受胎告知』、ティツィアーノ作『ウルビーノのヴィーナス』(どうせみんなレプリカ)。
順子はスローモーションで本屋の前を通り過ぎた。
レジの青年の期待した横目が眩しい。彼はルネッサンス展へ行ったのだろうか。そんなことを考えながら、順子は歩く速度を速めた。何か置いて来ようとするように、早足になる。家に着いたら低音の効いたロックのCDをかけようと心に決めた。
午後と午前のちょうど境目。順子は布団の上に倒れこんだ。CDプレイヤーから、むりやり潰した女声の叫びが聞こえてくる。隣人に文句を言われない最大の音量で。ドラムを殴りつける音や、スピーカーがぶつくさ言うような低い音が、部屋の中でひかえめに怒鳴りあいをしていた。
順子はパジャマ姿で六畳一間の真ん中に寝そべり、音のぶつかり合いに軽く相槌を打ちながら、自分の爪を削り出した。彼女が爪を伸ばし始めたのは、就職する少し前からだった。蛍光灯の下で白々と光っている爪にヤスリを当てて、長さと角の丸みを調節する。順子としては、ラウンドオフという形にしたつもりでいる。けれど友人と爪の話なんかしないし、本当にこれがラウンドオフなのかどうか、知らなかった。
あとはクリームを塗っただけでネイルケアを終わりにし、使った道具を片付ける。それから、順子はまた布団の上に戻った。適当に両足を伸ばして、上体を軽く前に倒す。どこにも大して力は入れない。膝が曲がっていても気にしない。羽と同じで、伸ばしすぎるといらぬ怪我をするからだ。彼女はストレッチを五分で切り上げた。半端にリラックスした感覚は、天井が低すぎてまっすぐ立てないのと似ていた(きっと高校生なんかも似たような気分で日々を過ごしているのだろう)。
順子は口角を上げるために笑い顔を作って、電気を消した。
薄暗くした広い空間の中に、白熱灯のぼやけた明かりがぽつぽつと影を作っていた。冷たく光るガラスケースの内側では、大理石でできた人たちが石の衣を着て硬直している。死した息子を抱く母や、誇らしげに立つ全裸の青年。中には天国の門などもある。壁際に設けられた柵の中には、天使たちが閉じ込められていて。
順子はそれらの間を亡霊か何かのように、足音もなく歩き回っていた。彼女が歩く場所は、作品を労わりながら照らす光の輪郭の外だ。もっと近くで見たかったけれど、そうしようとすると光が逃げていくようだった。
そうだろう、と順子は自嘲する。
そのまま歩いて行くと、順路の一番最後に設けられたスペースの片隅に、異様な展示物が現れた。
それはどう間違ってもルネッサンス展には出てこなそうな、近代的なオブジェだった。それを照らす明かりはなく、それ自体が内側からトロトロと発光している。
ツヤのない素材で作られた、半透明の大きな卵だった。中は暖かな黄みを帯びた、液体のような、気体のような、不思議なもので満たされている。細い管が血管のように殻の内側を走り、殻の天辺から中のヒナの頭に向かって束になって落ちていた。
ヒナは人のような形をしていた。その背中からは、金と銀の羽毛が貧弱にそよぐ未熟な翼が生えていた。
さむい冬の日の息のように、きらきら光る白い霞がヒナの口から吐き出されては消散するのを繰り返していた。
――腐っている。
それは生まれる機会を逃した卵だった。
順子は、吐き気を感じた。
手を口元に当てた格好で順子は目を覚ました。向こうの壁際に置かれたアップライト・ピアノがまず目に入る。
東向きの窓からカーテンを貫通して入ってくる日光が、使い古されたいま一つの日の幕あけを告げていた。目覚まし時計が鳴るより一時間ほど早い。けれど、直前の夢を思うと二度寝をしたいような気分にはならなかった。
順子はもぞもぞと布団から起き出して、乱暴にカーテンを開ける。すべて流し去るような音とともにリングがフレームを滑り、ぎらぎらした朝の太陽を招き入れる。
ウエストミンスターのチャイムが鳴って、下校時間を告げた。それまでショパンを弾いていた指が止まる。誰もいない夕暮れの音楽室に、最後の一音の余韻が長く揺れた。ピアノの前に座っていた少女は、ちょっと迷ってからもう一度ワルツを弾き始める。
華麗なる大円舞曲だった。最後の見せ場、テーマの変奏が走馬灯のように顔を出しては入れ替わるところ。苦手で、なかなか引っかからずに行かないのだ。
ワン・フレーズだけ取り出して、左手の動く幅を確認する。何度もそれをくり返しているうちに、いつの間にか二十分は過ぎていた。
「おーい」
不意に音楽室の扉が開いて、その向こうからひょっこりと日に焼けた少年が顔を出す。彼はよれよれになった紺色のブレザーを鞄と一緒に脇に抱えていた。その足元では内履きとしての使用を禁止されている体育館シューズが、かかとを踏み潰されている。
彼は西向きの窓から入ってくる夕日に目を細めた。ヘアワックスで立てた茶色い髪が余計に赤く透ける。
「帰ろ」
細めた目で彼は少女に微笑みかけた。
「うん」
少女は答えて、譜面台の楽譜を片付ける。ピアノの譜面台をしまうのを少年が手伝った。プリーツスカートから覗く彼女の白い膝の裏に、夕日の橙色が溜まっていた。
少女がまだまだキレイな黒い指定鞄に楽譜をしまうと、二人は廊下に出て音楽室に鍵を掛けた。鍵を職員室に返して、校門を出ると、友達よりも近い距離で並んで歩き出した。
「まっぶしーなー」
二人は太陽に向かって歩いている。少女は無言で目の辺りに手をかざした。筋肉の付いた、しなやかな指だ。
「お前さー、来年、音大受けんの?」
少年が頭一つ分ほど高い位置からその手を見ながら尋ねた。少女は学校で一番のピアノ弾きだった。学内の合唱コンクールでも、毎年伴奏者賞を取る。
答えまでは少し間があった。その間の表情は、少年からは手に隠れて見えなかった。
「ううん、普通に就職するよ?私が入れる音大なんかたかが知れてるし……そんなとこ出たって、ね。食べていけなかったら困るじゃん」
軽い声音で少女は言った。
「そっかー?やれば何とかなりそうなんじゃないの?」
「あはは、ムリムリ。そっちは?就職?」
首をひねる少年に、駄目押しとばかり彼女は笑った。
「就職ッちゃ就職かな。うちの蔵、継ごうと思って」
「そうなの?!本気で?」
少女は夕日を遮っていた手を離して、丸い目で少年を見上げた。少年は心外そうに彼女を見返す。
「本気だよ。俺、小学校の頃から決めてたんだぞ」
「へぇー……すごいね」
少女に心底から感心したように言われて、少年はちょっと頬を赤らめた。
「すごくねっちゃ」
照れたように彼が呟く。それから二人は、しばらく黙って眩しい道を歩いた。長く伸びた影が音もなく二人の後を追った。
やがて分かれ道に来て、少女が道を曲がる。手を振り合って、二人は別れた。
夜。街灯の尖った光が窓から押し入って、部屋の中の影を濃くしていた。
疲れて泥のようになった頭を抱えて、順子がそこへ帰宅する。台所の蛍光灯が点けられて、他の光を追い出した。部屋の隅には抵抗するように黒いピアノがうずくまっていた。
今日はやけにそれが目に付いて、順子は顔をしかめた。ピアノを覆い隠そうとするように掛けられた白いレースの上には、数冊の楽譜が重ねられている。チェルニーの50番練習曲、ショパンのワルツ集に、シューベルトの幻想曲と即興曲など。それらは何日見張っていても微動だにしない。……ホコリも被らない。
と、鞄の中で携帯電話が鳴った。滅多に聞かない着信音に、順子は電話かと思って慌ててそれを取り出す。
『メール受信 1 件 件名:久し振り from : 直山 タケル』
あまりにも久し振りに見る名前だった。順子は懐かしいと感じるより先に、何があったのだろうといぶかしむ。悪い知らせを覚悟してメールを開く。
『久し振り!元気?
突然だけど、今度そっちに出ることになったんだ。なんちゃって栄転(笑顔の顔文字) 来週、いつか空いてる?良かったら飲もう!』健(タケル)は、順子が就職して地元を離れた一年半前、親の後を継いで代々営んできた酒蔵に就職した。最後に会ったのは、去年の暮れにあった同窓会の時。酒好きの彼は何時ものように仲間たちと盛り上がっていた。少年のように血色の良くなった頬で酒蔵の良さを語る姿は、何か心騒がせるものがあった。
順子は、大きくてよく通る声がそのまま耳に甦るような文章に疲れて、返信せずに携帯電話を低いテーブルに置いた。部屋の隅にカバンを投げ出して、自分も投げ出されたようにテーブルの前に座り込む。
念力でカーテンが閉められれば良いのに、とぼんやり考えながら、順子は同時に夕飯のメニューを考え始めた。洗濯ものを取り込まないといけないし、書きかけのまま帰って来た書類をきちんと作っておかなければ明日の仕事に差し支える。仕事をしなければお金はもらえない。お金がなければ食べていけない。お金は「まともな」会社に勤めないと手に入らない。まともな会社にはそれなりの大学に行かないと入れない。それなりの大学には……
「もういや」
順子はテーブルに肘を付いて頭を抱えた。呟いたのはただの気分だった。それほど切羽詰っているわけではない。彼女はきちんと働いていて、きちんと暮らしている。実家には仕送りをして、母親の生活を助けている。だからもう、悩まなくても良いはずだった。
その後、順子は四日続けて美術館の夢を見た。眠る前にどんなに激しいロックを聴いても、ストレッチをやめて体が凝るに任せても、瞼の裏の闇はあの薄暗い明かりの間に繋がった。
服のシワまで美しい彫刻と、絵の具の筋まで完璧な油絵が飾る通路。
その先には、あの卵があるのだ。甘ったるい光の中で、凍えた白い息を吐きながら。
美術館の中ではロマン派のピアノがひっきりなしに流されていた。
「何なの?」
四日目の晩、順子はついに責めるように尋ねた。
――夢を見てる。
ヒナはとろりと薄目を開けて、口から霧を漏らしながら答えた。
「そんな時期、とっくの昔に終わったじゃない」
順子はガラスのコップをわざと床に叩きつけるような気持ちでヒナの反応を見た。順子はもう大人だ。なりたいものになったか、ならなかったかはともかく、もはや『無限の可能性』なんて言われない、形の決まった人間だ。それでも、これが夢に居座り続けるのは何故なのか。
ヒナはゆるゆると頭を回し、卵の中の液体に逆らって手を順子の方へ伸ばした。ぺとりと殻の内側についた指は、細すぎて何にも使えそうにない。そして、よく見ると震えていた。のっぺりした瞼に半分かくれた大きな目が、焦点の合っているような合っていないような微妙なまなざしを送ってくる。
――外は、怖い。
ヒナは慣性の法則に動かされてゆっくりと殻の内側に寄りかかった。
順子は良く分からない怒りに駆られて視線をめぐらせ、何か硬いものを探した。このふざけた物の殻を叩き壊して、頭を潰せる武器を。
これ以上近付くな、という印のポールが彼女の目に付いた。その真鍮色のポールを目指して、順子は走る。足元は綿の上のように頼りなく、なかなか前に進まなかった。いざ持ってみればポールは軽く、手にしたまま忘れそうだった。順子はそれでも卵に向かって取って返し、ポールで殻を殴りつけた。何度も。
しかし、腕は水中のようにゆっくりとしか動かなかった。殴っているという手ごたえもなく、殻が傷付くこともなく、ただ苛立ちだけが募る。
「なんで何もできないの」
順子は不意にポールを手放して、そのばにしゃがみこんだ。覚醒しかけた喉から吐き捨てる。
――幸せなんだよ。
ヒナの喉から縮こまった声が搾り出された。まるで言い聞かせるように。
ヒナは卵の底の方に沈んで、膝を抱いていた。その貧弱な体の輪郭ははっきりせず、ふやけたように柔らかかった。
生まれることすら出来ない、弱いヒナだった。
でもいつまでも存在し続けている。その理由を問うのは、自虐だった。
電話が鳴っている。
彼女は気だるく寝返りを打つと、枕もとの携帯電話を取った。表示は、直山タケル。取る前に切ってやろうかという思いが一瞬だけ順子の頭を過ぎる。携帯から逸らした視線がピアノの足に反射して、彼女自身を見つめた。
「……もしもし」
『ヨリッペ?タケだけど』
スピーカーが飛ばした声は、朝日のように明るかった。順子はもう一度寝返りを打って仰向けになり、片手で目をこする。
「あー……」
『まだ起きてなかったかー、ごめんなー』
久し振り、と言う前に相手が喋り出してしまった。順子は、出そびれた言葉を冷たく放置する。
「んー……なに」
『メールでも書いたけど、俺さー、今度そっちに出ることになったんだー』
「ごめん、返信するの忘れた……いつ?」
『いいよいいよ、気にしなくて。行くのは今週の金曜なんだけどさ』
「いいよ……今忙しいんだけど」
『どっちだよ』
健はそう言って笑った。順子は片手で額を掴んだまま、スケジュールを考える。寝起きの頭では中々うまく行かなかった。沈黙が続く。相手が順子の息遣いを聞いているような気がして、順子は居心地悪くなった。
「日曜だったら空いてる」
『日曜ね。……順子、元気?』
いきなり健の声音が変わり、やけに心配そうになる。思わず、順子は素直に答えてしまった。
「気持ち悪い」
『えー?そんなこと言うなよ、せっかく心配したのにさー』
健は電話の向こうで困ったように笑った。その声と電波を通して向かい合い、順子の心細さが皮肉げな笑みを浮かべる。
「……はいはい、ありがと」
順子がさらりとそう言ってもう一度寝返りを打ったとき、目覚ましが鳴った。
『あ、もう会社?』
「うん」
『朝にごめんなー。じゃ、日曜に。後、都合の良い時間メールして』
「うん」
『またなー』
ブツっといういかにも途切れた音がして、電話は切れた。
電話の呼び出し音が四回鳴って、やっとドアの向こうから少女がリビングに出てきた。台所との境目に置かれた電話が、五回目の呼び声を上げる。少女は椅子にぶつかりそうになりながら駆け寄って、受話器を取った。
「はい、長崎でございます」
彼女がそう言った瞬間、何かに驚いた気配が詰まったような間から伝わった。
『ぅあ、あの、こんばんは、あぁ』
焦りまくっている声を聞いて、少女は視線を夜のベランダに向けながら微笑んだ。半端に窓が開いている。母親は洗濯物を干しに行ったのだろう。
『直山なんですけど、長崎さんはいらっしゃいますか?』
ひとりでに支離滅裂になっている少年に、少女は笑いをかみ殺して冷静に返した。
「少々お待ちいただけます?いまちょっと電話で喋ってますので」
『あ、はい。え?』
少年がぽかんとしている顔が思い浮かぶような間があった。
「何してんの?」
『うっわー、マジで間違ったし。おばさんと声ソックリだなー』
「うそ?っていうか焦りすぎでしょ」
少女はくつくつと笑いを漏らす。
『だってさー、まぁいいけどさー』
少年は妙にためらったような声を出した。
「なに?」
『連絡網で。ユノメがまだ家に帰ってないらしくて、もし泊まりに来たらすぐ先生に知らせろって』
「なにそれ?家に来るわけないじゃん」
少女は鼻で軽く笑った。少年も受話器の向こうで笑う。深刻な話しになる可能性なんてこれっぽっちも思っていない二人だった。
『だよなー。でも回ってきちゃったんだから回さないといけないじゃん』
「やっぱリンリンはだめだね」
『リンリンも嫌そうだったって赤坂が言ってたらしいよ。ユノメの母親ってすげー勢いだもん。あれに騒がれたらそりゃー断れないよ』
「赤坂に嫌な風に見せちゃったってトコがやっぱりだめだよ」
『ほっ、厳しいな』
少年が諌めるように驚いて見せた。少女はそれ以上かわいそうな担任を追及せず、吐息で笑ってごまかした。
「見つかったらまた連絡網で見つかりましたって来るのかな」
『明日学校に行けば分かるし、来ないんじゃないかぁ?』
「もっと遅かったら電話なんかできる時間じゃなくなるもんね」
少女はちらりと壁に掛けてある時計を見た。時計の針は九時を差していた。少年が受話器の向こうで相槌を打つ。
『ユノメがどんな顔で出てくるか、俺ちょっと楽しみだ』
「え?今夜中に帰ってくるかな」
『来るでしょー。たぶんどっかで遊んでるだけだよ、あいつ』
「じゃ、来ないに一票」
『そうかー?まぁ、とりあえずいつかは帰って来るよ』
少年が気楽に言う。少女はその気楽さに笑った。
少女が電話を次の家に回し終わったとき、ベランダから少女の母親が戻って来た。空の洗濯籠を抱えている。
「どうしたの?」
彼女は少女が電話の前にいることに気付いて、首をかしげた。少女は彼女の方を振り返って、電話が置いてある台に寄りかかった。
「連絡網、回したとこ」
「連絡ってなに?」
母親は洗濯籠をしまいに行きながら尋ねる。狭い室内をするすると巡航するその軌跡を頭で追いながら、少女は答えた。
「ユノメ君が家に帰って来てないんだって」
「なんでしょう。だから男の子は………………いつまでも家に帰って来させてもらえると思ってるんだから」
母親は移動しながら喋っているため、途中は聞こえなかった。廊下の向こうの洗面所から戻ってきたとき、彼女は畳む洗濯物を抱えていた。
「そうだね」
少女はなんとも思わずに相槌を打って、部屋に戻った。
日曜、午後七時。街のいたる所にネオンが点り、似たような服を着た陽気な顔や疲れた顔がその下ですれ違っていた。車のテールランプにライトアップされた道路に響くのはヒールの音と雑音。
順子は、一般的になりすぎて機能しなくなった目印の前を小走りに通り過ぎた。そのすぐ近くの電話ボックスが待ち合わせ場所だ。
健はもうそこにいた。高校時代は茶色に染めてワックスで立たせていた髪は、長さも短く、真っ黒になっていた。しかし照明の真下にでもいるかのように、順子には彼の存在がすぐ分かる。
順子は、奇妙と言っても良いような気分だった。携帯電話に残った着信履歴に彼の名前を見たときも、同じように感じた。あえて避けるように、ずっと目にすることがなかったその名前。
「おー、久し振りー!」
駆け寄って来る順子に気付いて、健は片手を上げた。
そうだ。彼は一年半の空白を飛び越えて、高校時代から順子に向かって笑いかける。
「なんだよ、そんな改まったカッコして」
彼は順子の格好を見てからかうように言った。順子はタイトスカートと色を合わせたジャケットの中に、襟元にレースのあるブラウスを着ていた。一方の健は、ラフな柄シャツの上にカジュアルなベスト、下はジーンズという出で立ちだ。順子は自分と健を見比べて戸惑うように俯いた。
「だって、何かどれ着てもしっくり来なかったから」
「アレー、彼女、どこの女子高生?」
おどけた調子で言うと、健は少しかがんで順子の顔を覗き込む。順子はわざと大げさに顔をしかめた。
「北栄高校の五年生ですけど」
「まじ?同級生じゃーん」
花火のようにあっけらかんとした笑顔で、健はポンポンと順子の背中を叩いた。それが合図になって、二人は歩き出す。若者でごった返す道を、二人は前後になって歩いた。携帯電話で地図を確認できる健が先頭だ。
順子は彼の頭の上でちかちかと光っているネオンをぼんやり眺めながら、ただ彼の後を付いていくだけだった。彼女は方向音痴なので、いつも地図があったって目的地に着けない。
小さな店が軒を連ねる飲食店街の中をしばらく行ったり来たりして、二人はやっと目的の店に辿り着いた。小生意気な白い壁のイタリア料理屋だ。壁にはぱっと目を引く橙色で花が描いてあり、軽快なギター曲が流れている。入ると中央にピアノが置いてあって、順子は顔をしかめた。
「あ、ピアノだ」
健はそんなこととは知らず、のんきに呟いた。順子は彼が振り向かないうちに、応対に出てきた店員に予約名を告げる。
「七時半に予約していた長崎ですけど」
「長崎様。お待ちしておりました。ご案内いたします」
店員はにこやかに答えて、店の奥を手で示した。
席に着くと、久し振りに会う人々として相応しい会話をした。順子は遠い故郷の話しを聞きながらお絞りをいじっていた。その間に食器と水が運ばれて来る。
「ヨリッペ、ひょっとして仕事うまく行ってない?」
コップを順子に回しながら健が聞いた。順子が驚いて顔を上げると、微妙な笑いを浮かべた彼と目が合った。
「そんなことないよ」
順子はふと気付いて、お絞りをテーブルに置く。
「なら良いんだけどさ。なんかこの前、電話したときも元気なかったじゃん」
「あれはぁ……だって起き抜けだったからさぁ」
気遣い屋の健らしい台詞に、順子は懸命に笑った。彼に心配されるのは、みじめな気持ちだった。
「そっちこそ、なんで突然出てきたの?酒蔵やめたんじゃないでしょ?」
「まさか」
健は笑ったけれど、どこか困っているようにも見えた。ちょっとためらった後、彼はさっぱりと告げた。
「でも造る方じゃなくて、売る方にしたんだ」
「え?」
順子は目を丸くした。
「なんか、いろいろ考えてるうちに宣伝の方が面白くなっちゃって」
健は照れたように頭を掻いた。その仕草がなぜか彼女の心を毛羽立てた。順子はなにくわぬ顔で、さも心配するように言った。
「作る方だってまだ一年半しかやってないんでしょ?」
「そうだけどさー」
案の定、反論できない彼の頭の上に、順子はさらに言葉を重ねる。
「そういうの、良く考えてから決めた方が良いと思うけど。それで宣伝もうまく行かなかったらどうすんの?」
「厳しいなー、ヨリッペは。するしかないから、なんとかするって」
健は苦しく笑った。その頬が少し引きつっている。
「宣伝って具体的にはどうするつもりなの?」
順子は真正面から彼を見ながら、淡々と尋ねた。
「地道な営業努力だっちゃ」
健は、目を逸らしてコップの中の氷をくるくると回した。隙だらけの答えに順子の中の意地悪い部分が反応して、口を開かせる。
「営業努力って、たとえば?どういう所に、何をもって売り込むの?小売業の動向とか、流行とか、調べてる?最近ちょっとテレビとかで日本酒もてはやしてたけど、それが下火になったらすぐ『いりません』って言われるようになったりしないの?」
「心配してくれるのは嬉しいけど、俺の仕事の話しはいーよ。大丈夫だって」
彼はもう一度、笑顔を振り絞って、しばらく黙り込んだ。順子は空腹で胃液臭くなった口に、水を流し込んだ。
「ヨリッペ、ピアノは?」
パンが運ばれてきた時、やっと健が口を開いた。彼は迷いもせず、一種類ずつ皿に取った。
「弾いてないよ。こんな爪にしちゃったし」
きれいに整えた爪を健に見せつけて、順子はパンを断った。ダイエットのため、夜は炭水化物を摂らないことにしているから。
「そうなんだ。もったいないなぁ」
健はさっそくパンを千切る。
「今さら、指が動かないって」
言葉を自分で確かめるように、順子は両手の指を一本ずつ動かした。ドレミファソ、と音階を空中で弾くと、薬指と中指の間で音がもつれるのを感じる。
健は順子の指の動きを見ながらパンを食べていた。彼には少女の時から変わらない、良く動く指に見えた。
「ふーん……あ、結構うまい。一口あげよっか」
彼はそう言って千切った一欠けを差し出したが、順子はそれも断った。
なんとなく打ち解けない雰囲気がその後ずっと居座った。仲たがいをしたというわけでもないのに、別れる時にはほっとしていた。きっとお互いそうだっただろう。
家に着くと、順子はすぐにCDプレイヤーの電源を入れた。音量のつまみをいつもより大きくして、再生ボタンを押す。とたんに、壁でも壊そうとしているのではないかと思わせる激しいドラムの音がスピーカーから飛び出した。すぐにベースが唸り始め、キーボードが加わる。掌で鍵盤を叩いて弾いていた。
男性の錆びた声を聞きながら、順子は絨毯の上に転がった。手がプレイヤーのリモコンに触れる。
大音響がブツっと途切れた。指が無意識に電源ボタンを押していた。
隣人たちは驚いただろうか。
順子は苦情が来たときの受け答えを想像しだしていた。何と言ったら、世渡りの科目で及第点を取れるだろう。もしも順子が芸術家だったら、言い訳などしなくて済むのかもしれない(これは芸術のためです)。
いや。芸術家だったなら、このアパートに入居することが出来なかっただろう。
(収入が不安定な方はだめです)。
「人はパンだけで生きるんじゃないんだよ」
順子は天井を見上げてでたらめをぶち上げた。
天使たちの嘆き声が聞こえる。
石像の目から涙が流れ、油絵は変色して青ざめていた。
順子は溜め息をついて、薄闇の中、進まない足を引きずっていく。行くまいと思うのと同時に、そう思っていることを忘れてしまうのだ。
BGMはオルガンの聖歌だった。ゆっくりとした重い八分音符が、荒れ野を歩く人の足音のように刻まれている。
果たして、卵はいつもの場所にあった。ヒナの溜め息にあわせて、白いきらきらした霞がたなびく。温かい光の中で凍えている。なんという贅沢。
彼女には分かっていた。もうヒナの翼は腐っている。足は萎えて、指は動かない。殻の中のぼんやりした濁りは、ヒナの皮膚の組織がただれて溶けているという証し。
順子は昔、あの殻を割ろうとするものから、ヒナを守らなければならなかった。だから大事に大事に胸の奥にしまいこんで、そうして、腐らせてしまったのだ。
順子はどうしようもなく乾いた気持ちで、うすぼんやりと光り続ける卵を見つめた。ヒナは放心したように半分開いた目を、眠りの速さでまばたきしていた。どこを向いたら良いのかも知らない目だ。
そんな卵を、順子はいつまでも抱き続けているのだった。
周りの友達や他の人たちのヒナの産毛が、若い艶やかな羽に生え変わって行く中で。
『メール受信 1 件 件名:無題 from : 直山 タケル』
起きると、健(タケル)からメールが来ていた。順子(ヨリコ)は寝ぼけ眼で機械的に携帯電話を操作する。
『おはよう!昨日は付き合ってくれてありがとう。
ヨリッペに言われてちょっと俺の考え甘かったかもって思ったよ。
引き返せないけど、もっと考えようって思った。
ホントに感謝してる(何かの顔文字)
また一緒に飲みに行こう!
さしあたって再来週とかどうかな(笑)
ユノメが遊びに来るって言うからさ、他にも誰か誘って遊びに行かない?』
順子は返事をせずに電源ボタンを押した。デフォルト設定のままの待ち受け画面が現れて、メールは見えないところへしまわれる。
謝らなくてはいけないと思ったけれど、言葉が出てこなかった。順子はあっさりと電話を置いた。悩むよりも先に顔を洗って、朝ご飯を作って、食べて、着替えて、化粧をして、髪型を作って、それから会社へ行かなければならない。
洗面所の鏡の前に立つと、苦々しい顔が順子を見つめ返していた。顔にシーツの跡が付いていて、朝なのに疲れて見える。
「もう社会人なんだから」
順子は呟いて、自分の頬を両側からつまんで引き上げた。社会に必要なのは仏頂面ではない。
鏡を殴りたい衝動が瞬時に沸き起こったが、彼女はそれを、後始末のことを考えて飲み下した。そのまま冷たい水で顔を洗って、歯を磨く。歯ブラシで口の中をきれいにしながら、順子はやっぱり返信で謝ろうと考えた。
居間に戻って、携帯電話を布団の上から拾い上げる。ピアノを視界から外して、受信メールの一覧を表示させた。
本文を開いて、彼女の手は動かなくなった。
トートバッグに四冊の楽譜を入れて居間を通り過ぎようとした少女に、台所から母親が声をかけた。
「月謝持ったの?」
「持った」
少女は一度ふり返って答える。母親は洗い物をしながら頷いて見せた。その手はまるで一連の動作から抜けられない機械のように動き続けている。少女はいつでも、彼女が忙しくしているところしか見たことがない。皿洗いが終わったら、すぐにワープロをつけて明日の仕事の用意か、今日の仕事の始末をするのだろう。
「発表会いつなんだっけ?」
「来月の末」
「そう。もう夏休み?そういえば、あなた本当に大学に行かなくて良いのね?今どき大学に行かないと良い会社に入れないよ」
母親は娘の方を見なかったけれど、顔は彼女に向かって厳しかった。
「うん」
少女はどちらの問いにともなく静かに答えて、母親に背を向ける。もし、もっと勇気を持てる日が来たとしても、その選択に耐えるだけの経済力が自分の家にないことは、皮膚に染み込むほど分かっていた。
「ピアノばっかりに構わないで、やるならしっかりやりなさいよ。ちゃんとした仕事して、自分を養わないといけないんだからね」
「……うん」
居間を出るまでに、少女はなんとか返事をした。胸が重くて、溜め息すら体の奥に沈んでいくようで、出てこなかった。代わりにバッグの肩ひもを少し引き寄せる。彼女は今すぐ眠りについて、いつか良い時代が来るまで、目覚めずにいたいと思った。
どんよりと厚ぼったい曇り空に迎えられ、ドアを閉めた。その斜め上の表札には、苗字と二人分の名前が書いた紙が入っている。排気ガスと年月に汚された紙はすっかり茶色く変色していた。
車のタイヤがアスファルトを削る。知らない大人が靴のかかとを鳴らして歩いて行く。信号機が無神経な音で呼びかける。少女はノイズの中を、しんと口をつぐんだまま進み始めた。
沈黙と従順は、争いを避ける最上の魔法だった。
順子は携帯電話を置いて、振り返った。白いレースをかけられた黒いアップライトピアノが彼女の視線を待っている。しばらく見つめ合った後、順子はそっと椅子を引いた。木の足がカーペットをこする。座ると、高さを調節する金具が軽く鳴った。
ふたが上前板にぶつかる音がぽっかりと響く。赤い鍵盤カバーを丸めて横に置き、彼女は適当に鍵盤に指を乗せた。弱音ペダルを入れて、最初に思いついた曲の最初の音へ。
モーツァルトのソナタだった。彼がマンハイムを通ってパリへ旅したときの一曲から、明るく軽やかなロンド形式のもの。
出だしの第一主題は、音と音の間がやけに詰まって、慌てて飛び込んだように聞こえた。装飾音符はただの十六分音符と変わらなかったし、リズムが偏っていた。
フレーズの終わり、収まるはずの音が投げ出したように飛び出る。中指と薬指と小指が連動してしまっていて、音の粒がはっきりしない。左手は飛ぶ幅を間違えて、まったく別の音を出した。そしてどの音も、骨と皮ばかりのスカスカの音だった。何とかしようとすればするほど手首に力が入って、音が悪くなる。
爪を鍵盤の間に引っかけて剥がしそうになり、順子は指を止めた。
彼女が十年かけて積み上げたものは、もう既に塵になって崩れ去った後だった。
当たり前のこと。三日弾かなかっただけで三か月分の練習がふいになるとさえ言われる世界では。
順子はピアノに頭をもたせた。小さい頃は、上手く弾けないことに憤ってピアノを蹴ったりもしたものだ。今は代わりに、歯を食いしばる。また前と同じくらいに鍛えるには、弾かなかった時間の倍以上もかかるだろう。取り戻せないことも、あるだろう。
元は白かった教室の床は、数知れぬ少年少女たちの足跡で薄黒くくすんでいた。出入り口の向かいに並んだ窓は夕日から取りこぼされて、寂しそうに中庭の断片を透かしている。どことなく、たった数ミリの厚さしかないガラスが、まるで頑丈な鉄格子であるかのように錯覚させる景色だった。
黒板の斜め上に取り付けられた時計は、午後五時半あたりを指していた。もうすぐ下校を促すチャイムが鳴る。似たような旋律を変奏して行く長い曲を、大胆にもワンフレーズの途中で切り上げたもの。
いつも通りに鳴り始めたチャイムの中をくぐって、ジャージの少年が廊下を走って来た。運動靴が足元でゴムの軽快な音をさせる。彼はまっしぐらに自分のロッカーに飛びついて、ドアを開けるのとほぼ同時に運動着袋と通学鞄を取り出した。
どうせ誰もいないので、彼はその場でジャージから制服に着替えた。制汗スプレーを勢いよく上半身に振り、髪をなんとか整えるまでの所要時間はせいぜい五分ちょっとだ。習慣に任せた流れ作業で体育着袋をロッカーに戻し、ドアを閉める。
通学鞄を拾い上げて廊下に向き直り、彼は初めて教室の電気がついているのに気が付いた。ちょっと珍しい光景だ。気の早い誰かが受験勉強でも始めたのだろうか。少年はドアの前を通り過ぎつつ、さりげなく中を覗いた。
「ん!」
驚きの唸りとともに、ぎゅっと音を立てて彼の足が止まる。蛍光灯に白く照らされた教室にぽつんと座っているのは、これから彼が迎えに行くはずの少女だった。
彼女は自分の席に座って、本を開いている。それはいつもの大きな肌色の楽譜ではなく、何かの雑誌だった。彼女があまりに動かないので、まるで教室の中で時間が止まっているかのようだった。
少年は数歩とって返して、遠慮がちにドアを開けた。少女はのろのろと顔を上げる。少年はその顔を見て、彼女が彼を待っていたという予想を手放した。
「音楽室じゃなかったんだ」
代わりの言葉を探し損ねて、彼は口を滑らせる。
「うん。先生待ってんの」
少女はずり落ちるように彼から目を逸らした。
「先生?なに、怒らったの」
彼女は中学の頃から反省文なんか一度も書いたことはないし、制服チェックで引っかかったことすらない。それでも少年はわざと絶対に当たらないことを聞いた。彼女が少しでも笑ってくれたら良いと思いながら。
「ううん、就職のこと。だから会議終わるまで待ってないといけないんだ」
如才なく答えながら、少女は頬杖をついて、机の上に広げた雑誌を読むふりをした。少年は心拍数が妙に上がってくるのをどうにか抑えようとしながら、入り口に立っていた。
「へぇ、大変だなー」
彼が必死に言うと、彼女はちょっと目を上げようとして、なぜか失敗した。彼女は雑誌に目を戻したが、どこも読んでいないのは少年にも見て取れた。普段の親しみはどこへ消えてしまったのか、まるでケンカでもしたような気まずい雰囲気だった。
「だから、先にかえってて。……ごめん」
少女は妙な緊張感をもってそう告げた。日陰の教室を蛍光灯が不躾なほどくっきりと照らしていた。少女の肌はその下で青白いくらいに見えた。
「わ、かった」
少年はつっかかりながらも答える。釈然としない色がはっきりとその顔に現れていた。
「じゃあ。また明日」
「うん」
少女はそう返す最後まで、彼の方を見なかった。少年は彼女にすっかり背を向けて、教室のドアを閉める。
少女はその後姿だけを見た。その視線は、ドアの向こうを過ぎる時に、試すように舞い戻った彼の目をわずかに捉えた。
少年はロッカーの陰で少し足を緩めた。けれど、立ち止まることができなくて、そのまま俯き、ゆっくりと学校を後にした。
誰もいない音楽室の夕日の中で、ほこりがきらきらと泳いでいた。オレンジ色の光は、座る人のない古ぼけた黒い椅子の足を温めていた。すきま風に流されたほこりが、すり切れかけた革の上に、静かにふり積もった。
生徒たちの足音や声がドアの向こうを通り過ぎて行った。
外から聞こえた突然のクラクションで、順子は頭を上げた。そろそろ支度をしないと遅刻する。
彼女はピアノから離れて、会社員になる準備を始めた。食パンにマーガリンを塗ってトースターにセットする。その間に服を着替えて、朝食を終えたら化粧にかかる。
化粧ももう慣れたものだった。最初は毎日化粧をするなんて肌に悪いと思っていたが、手入れをすれば案外そんなこともない。
玄関に行く前に、全身が映る鏡の前で最後の確認をした。そこに立っているのは、どこからどう見ても一人の社会人だった。ストッキングも伝線していないし、寝癖もすっかり直っている。顔にこれといっておかしいところはなく、スーツに変なシワもない。
ハンドバッグの中身を確かめて、順子は玄関に向かった。
順子は薄明の中に立っていた。美術館の展示室だったはずの場所にはいつの間にか窓があって、灯りはそこから入ってきていた。よく見ると、壁の上の方にはっきりしないポートレートの人影が横並びにうずくまっている。薄い印刷氏の上で思い思いに、考え込むように頬杖をついたり、見る人を厳しい顔で睨み返したりしている彼らは、証人だった。生活に苦しみながら、音楽を捨てなかった人たち。
順子はほのかに光る卵のそば近くに寄った。掌で曲線をなぞると、細かい凹凸が分かる。生命を感じさせる熱はなく、ずっと放置されてきた冷たさが伝わってきた。
胸に深く息を吸う。
順子は握りこぶしを振りかぶって、その殻を殴りつけた。
氷の悲鳴に似たきしみとともに亀裂が入った。順子はさらに腕を振り上げ、またぶつけた。一部がへこんで、内側に張り巡らされた細い筋が引きちぎられる。その先から白っぽい霧が、絵の具を洗うように滲んだ。
そんな事態にもかかわらず、ヒナは緊張もしていなければ、焦ってもいない。順子を止めようともしない。かすかに身を縮めたのみで、眠たげな瞳をあらぬ所に向けていた(それは、天国だろうか)。
最後の一打ちで、大きな断片が卵白の中へ倒れ込んだ。黄ばんだ卵白の流出に、殻の内側からはがれた銀色の筋がそよぐ。
中からわき出した腐臭が吐き気を誘った。ヒナは水位が下がるのに合わせて、ぐずぐずと底に沈む。腹を弛(たる)ませ、頭は重力に引っぱられるままの不自然な角度で膝によりかかった。羽毛がみすぼらしく縒(よ)れた小さな翼は、べったりと背中に張り付いている。全体に、ちぎれた管がはりついていた。
順子は息を止めて卵の中に腕を突きいれ、ヒナの細すぎる腕を掴んだ。ふやけた皮膚はそれだけで破れそうで、指の下で妙に柔らかい肉が滑った。順子はしっかりと指に力を込めて、ヒナを卵の中から引きずり出す。
二人とも殻の切っ先で少しずつ傷を負った。その傷をこそ恐れていたはずなのに、順子の頭にはひたすらこのヒナを引きずり出すことだけがあって、痛んでも平気だった。そうやって押し殺してしまえる程度の痛みだった。
べしゃっと音をさせて、順子がヒナごと床に座り込む。ヒナは抵抗どころか、ぴくりともしなかった。ただ腐っていくことしかしなかった、かわいそうでバカな生き物。
滑稽で、笑えてすらきそうだった。
順子は慈母のようにヒナを抱き、その表情のない頬に、裏切り者の口付けを与えた。
温かく。
ヒナはやっと、目を閉じた。
朝焼けの光が窓からさっと差し込んだ。
少女は真新しい橙色に染まった空を仰いで、目を細める。彼女は音楽室の真ん中に立っていた。長い休みのような静けさがあたりを包んでいる。ずっと、誰もいなかったような気配だった。ほこりっぽいような、冷たさのような、少女が好きな音楽室のにおいがしていた。
ドアにくり抜かれた窓から、ちらりと少年が中を覗いた。彼は少女の姿を確認して、ドアを開けた。まるで予定されていたことのように、少女が振り返る。
二人はまっすぐに視線を通わせた。
「帰ろ」
少年が言うと、少女は頷いて、スカートのプリーツをひるがえした。少年は彼女が出るまでドアを押さえている。
カチャン、と音がして、ドアが閉められた。少しして、錠が落とされる少し重い音。
それから二つの軽い靴音が、遠い時間の向こうへ遠ざかって行った。
靴を履きながら、順子は携帯でもう一度メールを開いた。返信の本文の中に「ごめんね」と打ち込む。そう長い文章ではないから、玄関を出てエレベーターを待つ間に、書き終わって送信した。
返信はあまり間を置かずに来た。笑った顔文字と、まるで女の子のような優しい書き方で。
その瞬間、胸の奥から何かがせり上がってきて、順子の目から溢れた。文字盤にぱたりと大きな音を立てて涙のしずくが落ちる。順子は慌ててそれを指で拭いた。けれど、顔が歪むのを止められなかった。
安心したような、悲しくて空っぽになったような、奇妙な気持ちが涙を流す。順子は急いで部屋にとって返して、玄関扉に背中を預けてしばらく思いきり泣いた。
そうすることが、許されていると思えた。
化粧を直す前に、順子はCDプレイヤーを開いて、中のCDを入れ替えた。デジタル画像が印刷されたCDから、黒い地に少し飾りの入ったアルファベットが並ぶだけのシンプルなものへ。
スピーカーから流れ出したショパンのワルツは、やがて空へ昇るように消えて行った。