海へ行こう

小さな足がキュっと音を立てて細かい砂を踏みしめた。未発達な両腕に支えられた桶の中で、わずかな水がたぷんと呟く。生成りの粗布で作った帽子の日よけが埃っぽい熱風にはためいた。水桶を手にした少年はきつく目をつぶって風から顔を背け、ぴしぴしと当たる砂粒を避けようとする。

やがて風が通り過ぎると、少年は再び砂の上を歩き出した。顔を上げたその目に映るのは、見渡すかぎりに波打つ砂丘と炎のように青くて広い空だった。

そう、ここは砂漠。

少年、ヨブは方向を変えて、砂埃のこびりついた一軒の小さな家をぐるりと回った。そこには家の後ろに隠れるほど小さな畑があり、背の低いラクラという作物が支柱にもたれかかって乾いた葉を垂らしている。その間にはヨブと似たような出で立ちの――粗布の衣服と日よけの付いた帽子を頭に被った――少女がいて、不機嫌そうな黒い瞳をヨブに向けていた。

「分けてもらって来たよ」

ヨブが畑の外で水桶を置いた。

「ありがとう」

少女が畑から出て来てその足元から桶を持ち上げる。ちゃぷん、と音を立てたその中身に目を落として、彼女はおもむろに顔をしかめた。畑に戻りかけた足が止まる。

けれど、彼女は何も言うことなく桶から目を上げてただ畑を見渡した。ヨブがその思案げな横顔を見て控えめに口を開く。

「ホナミ……足りない、よね」

「言っても仕方ない。誰かが余計に取ってるわけじゃないんだから」

ホナミと呼ばれた少女は、一片も濡れたところのない畑に目を据えたままぴしゃりと言った。ヨブはその頑なな声にがっかりしながら、わずかにうなだれる。

ここ、ケナヒの村の井戸はほとんど枯れてしまっていた。

いつもならこの時期、東の大山脈で目覚めた川の神が砂漠を渡り、この付近の地下水脈を潤しているはずなのに。

言い伝えによれば、川の神はハフル村に祀られているこのあたりの砂の神と、毎年逢瀬の約束を交わしているのだそうだ。言い伝えの通り、これまでは夏の間だけハフルの横に太い川が現れていた。

その川が、今年にかぎっていつまで待っても現れない。

それで、村にたった一つ残った井戸を村長が徹底的に管理しているのだった。

ヨブがしょんぼりとしたのを横目に見て、ホナミが言い訳のように付け足した。

「べつに怒ってるんじゃないよ。あんたが行ったからってもらえる量が変わらないのは分かってたもん」

彼女はヨブの反応を見ずにラクラの列のはじへ歩いて行った。そして支柱にかけてあった小さなひしゃくを取り上げて、少しずつラクラに水をやり始めた。ヨブはそれを眺めながら、褐色の額にじっとりと浮いた汗を拭う。

「おじい達が喋ってるのが聞こえたんだけど、ハフルの祭りも延期だって」

彼は逆光に目を細めながら徒然に言った。川が流れてくれば、ハフルでは祭りが開かれる。村人はみんな日々の仕事を忘れて川の神の訪問を喜ぶ。遠くから商人たちがやってきて夜店を出すし、爆竹が鳴らされ、砂蛍灯(すなぼたるとう)が点されてと華やかなのだけれど。

熱砂に機械的に雫を落としながらホナミが答えた。

「期待なんかハナからしてない。良いことより悪いことのほうが少なかったことなんてないんだから」

砂の上は、水がかかったのかどうかもすぐに分からなくなる。

「ホナミは祭り、好きだったよね?」

にべもない言い方にめげず、ヨブが尋ねた。

ホナミは汗を拭いたほかは少しも手を止めずに返す。

「べつに。あんた、遊んでないで父さんと母さんを手伝いに行ったら?」

その後に少しの沈黙が降りた。

「ホナミ、今年も祭りに行こうね。それで祭りが終わったらさ、川に付いて行ってみようよ。海まで行けるんだよ。ハフルの司祭が使う粉があるでしょ、あれをちょっと盗み出してさ。あれを撒いたらアメンボみたいに水に浮かべるようになるから、きっと流れに乗ってすぐだ」

突然にヨブが言った。やけに楽しそうな口調に面食らって、ホナミはまじまじと彼を見る。ヨブの褐色の肌はぎらぎらとした太陽の光をあびて、金箔をまぶしたように光っていた。まるで彼自身が祭りのための装飾品かなにかのようだ。

「なにふざけたこと言ってるの」

ホナミは眩しい弟を軽くたしなめた。その手はまた水やりに戻る。ヨブは頭の後ろで手を組んで、さらに食い下がった。

「海はいいと思うよ。ホナミも聞いてただろ、おじいの昔話。」

「海と砂漠の何が違うの。ラクラが育たないことには変わりないでしょ!ラクラがなかったら何を食べるの?食べないでどうやって生きてくの?くだらない」

ホナミが即座にそう言うと、ヨブは軽く肩をすくめて、すごすごと退散した。

ヨブがいなくなると、ホナミは溜め息をついて少しだけ手を休めた。彼女の目に映るのは、見るだけでたくさんになるような砂、砂、砂……この地はどこまでも砂漠だった。毎日、燃える風が砂の山を一粒々々かいがいしく動かして、別の位置にまったく同じ形で移動させている。人間はその下敷きにされかけながら毎日、一滴々々かいがいしくラクラに水をやって、どうにかこうにか生き伸びて、同じ一年をくり返している。

「これまでだって良いことなんか無かったんだから、これからだってあると思ってないよ」

ホナミは諦めたように呟いた。

「もう既に知っておろうが、川の神がまだハフルにおいでにならぬ。去年の祭りは滞りなく行われて、川の神は砂の神との約束を新たにされたはずにも関わらず、じゃ」

パイプから吐き出される煙のような老いた声が石の壁の内側に響いた。天上から釣られたランプの下に胡坐をかく長老は、震える手をばちんと打ち鳴らして握り合わせた。その正面に集められて床に座っていた少年たちはその音に身をすくめる。

長老は噛みあわせた指を解き、たっぷりとした白いひげをしごきながら続けた。

「これは由々しきことじゃ。井戸は枯れつつある。このままではラクラは枯れ、スナクイたちは死に絶えてしまう。村中が干上がってしまうのじゃ。それだけではない。川の神がおいでにならねば、この地は清められぬ。聖なる水の流れがハレの海へと運び去ってくれるはずだったこの一年の嘆きや災厄が、この地に留まってしまうということじゃ。それらは砂のうちで腐って、必ずや悪しきものを呼び込もう」

そこまで一気に喋って、長老は少年たちの日に焼けた顔を見回した。どれも精悍で、頼もしい種たちだ。命の水さえあればすくすくと伸びて、豊かに実をつけるだろう。彼は満足げに頷いて、再び口を開いた。

「ハフルの祭司が川の神をお迎えする使者を立てると決めた。そのために、このあたりの村から二人ずつ、十五歳未満の勇敢で穢れなき少年を集めておる。今晩、おまえたちを集めたのは他でもない、村のために東の大山脈へ行ってくれる者を見出すためじゃ」

これを聞いた少年たちの顔に動揺が走った。彼らは普段、せいぜい出してもらえても隣のハフルまでだ。それがいきなり大山脈とは。

「祭司の一族の男たちが一つ目の街まで付き添うことになっておるが、その先はしきたりに従って使者だけに行ってもらうことになるじゃろう。さらに言うならば、どこで川の神が見つかるかはまったく分からぬ。ひょっとすると大山脈より手前までおいでになっているやも知れぬし、大山脈まで行ってもだめやもしれぬ。危険で長い旅になることだけは確かじゃ。………さて、この中で誰が一番勇気ある者かな」

長老は、すぐにどうとは期待せずに尋ねた。

少年たちはちらちらとお互いに視線を送りあいながら黙りこくっていた。スナクイの眠たげな鳴き声が聞こえる。

やがて、竦んだように並ぶ黒い頭の間からまだ細い褐色の腕がするすると伸びた。

長老は目を大きく開いて、意外そうにその顔を確かめる。

「僕が行きます」

祭りの鈴飾りのような声で言ったのは、ヨブだった。

「良かろう」

長老が答えた。

次の手はすぐに挙がった。長老は一番早かった者を名指しする。

「エリファが早かった」

ヨブとは少し離れていたところに座っていたエリファが、胸を張るようにヨブに目配せをよこした。

長老の家から帰る途中、ヨブとエリファは冴えた星空の下を並んで歩いていた。

「エリファを巻き込むつもりはなかったんだけど」

言葉のわりに申し訳なく思っている風でもなく、ヨブが言った。

「見くびるな、ヨブが行くんなら俺だって行くよ」

エリファが軽くヨブの胸を小突く。ヨブはちょっと嬉しそうに微笑んだ。

「何を企んでるのさ?あんなに早く手を挙げるなんて思わなかった」

エリファはいぶかしげに親友を頭から足まで眺め回す。ヨブは照れたように顔をそらして、頭上で輝いている満天の星に向かって煌き返すように答えた。

「他の町に行けば、いろいろ良いものがあるだろ?ほら、羽飾りだとか、指輪だとか。ホナミにそういう、何か楽しくなるような物をあげたいんだ。何か祭りに行きたいような気になるものをさ。ここのところずっとクサクサしてるから」

エリファはヨブを見つめたまま、良く分からないと言うように鼻を鳴らす。

「ホナミがいつもと違うようには見えないけどな?」

「なんとなくだよ」

二人はまた明日、と言って、エリファの家の前で別れた。

出発の朝が来た。明け方、足の大きな村で一番目と二番目に良いスナクイに乗って、エリファとヨブは家族に暇を告げた。親たちの顔は心配そうながら誇らしげだったが、ホナミの顔は死のように黒い髪の下で墓石のように強張っていた。

「ホナミ!素敵なお土産を持って帰るから。帰ったら一緒に祭りに行こうね!」

ヨブがスナクイの背から振り返って声をかけたとき、ちょうど砂のうねりの向こうから朝日が昇ってホナミの双眸を射た。ホナミは喉がからからになったようで何も返せなかった。

ヨブの旅立ちからわずかに二日。

ホナミは少ない水でどうにかラクラの半分を生き延びさせることに成功していた。お喋りな弟もいない、スナクイの世話をしていて両親もいない。静かに寂しさを感じながら、ホナミは一滴々々、毎日そうしてきたように水をやっていた。

何も変わらない作業、何も変わらない一日。その日も、砂の山を移すように無味乾燥に、平穏に過ぎて行っただろう。ぼろぼろになった一頭のスナクイが彼女の畑に突っ込んで来て、御してきた少年を目の前で振り落としたりしなければ。

倒れこんだスナクイを避けてラクラの上にしりもちをついたホナミは、状況が分かると慌てて立ち上がった。泡を吹きながら足掻いているスナクイは放っておいて、砂の上に叩き落された騎手に駆け寄る。見覚えのある少年――ホナミの心にぐさりと矢が刺さった。起き上がりかけたエリファは、助けるように差し出されたホナミの腕を痛いほど掴んだ。

「盗賊に襲われた!」

小麦色の額に乾いた血をこびりつかせた彼は黒い目を見開き、掠れた声で叫んだ。

川の神を迎えに行った使者たちを、二日目の朝、盗賊が襲った。

エリファが息も絶え絶えにもたらしたその報せは、ハフルとその周辺の村を強烈に打ちのめした。

寝起きのところを襲われた少年たちは迷走し、数人は殺され、散り散りになったのだという。エリファは逃げ惑いながら無我夢中でスナクイに飛び乗り、追っ手をなんとか撒いてケナヒまで走って来たのだと話した。生き残った者がいたのか、いたとしたらどうしたのか、全く分からない状態だった。

ホナミはそれからの日々も畑で過ごした。暗澹たる五日、スナクイの乱入で折れてしまった株を元に戻そうと手立てを考え、水の配分を考え、一粒々々、砂漠の波をそっくり移すように………移すように………。

砂嵐の前兆のような強い風が吹いて、ホナミはその熱から顔をかばった。それだけでは足りず、風に背を向けて両腕で顔を覆い、日よけがなびかないように手で押さえる。砂が撃ち抜こうとするようにぶつかって痛かった。

ホナミも砂と一緒に飛んで行ってしまいそうだった。ヨブが生きていなければ、永遠に祭りの日は来ないのだ。砂と一緒に飛んで行くのも、ここで生きているのと同じなのかもしれない。ホナミは快活な弟を失って、そんな風に思った。命を繋ぐ希望の水は、砂漠のように延々と広がる乾ききった日々の前に枯れて行く。

風が収まって、彼女が服のしわに入り込んだ砂を払っていると、盛大に砂を蹴り上げながら隣の奥方が走って来た。

「ホナミ!母さんたちに報せな、祭りだって、祭りがあるってよ!」

そう叫んだ興奮した響きを、ホナミは別の世界の音のように聞いた。奥方は慌てた様子で村の中央、井戸がある方へ走って行く。ホナミは直しかけの支柱を置いて、ふらふらとその後を追った。

井戸のまわりには村人が集まっていた。日よけ帽の下でいっそう日に焼けた壮年の村長が、演説用の岩の上に立ってくり返し叫んでいる。ホナミが村人の輪の一番外に加わったとき、村人たちは湿っぽい声でこうささやき合っていた。

「ヨブたちの魂が川の神様を見つけたんだ」

「良かったね、これで村は救われたね」

それらの上から村長が声よ枯れろとばかりに叫んだ。

「今朝、ハフルに川が現れた!ハフルの祭司は今晩から、慣例どおり祭りを執り行う!みな、川の神をお迎えするのに粗相がないよう心して仕度しろ!爆竹を出して来い、砂蛍を捕まえろ!祭りは今晩だ、ハフルに川が現れた!」

ホナミはそのがなり声を聞き飽きると、いつもの仏頂面で畑へ戻った。

少しも丈が伸びないラクラの間に立って、ホナミは泣きながら呟いた。

「祭りなんて……期待してなかったよ。良いことなんかこれまで一つもなかったんだから、これからだってなくていいよ。期待するだけバカを見る。あたしはここで、砂みたいに死ぬんだ」

褐色の頬を伝った涙はあっという間に砂に吸い込まれて、数秒とせずに跡も見えなくなる。ホナミは日よけで涙をぬぐって、砂のうねる砂漠のただ中へ歩き出した。

一歩ごとに足がくるぶしのあたりまで沈む。脛まで紐でくくり上げた布靴の上から熱さが染み込んだ。

それは少しだけ懐かしい感触だった。昔は家のまわりをヨブと一緒によく「探検」したことを、ホナミはうっすらと思い出す。砂の山が作る死角に胸を躍らせて、さも特別なことがあるかのように思っていたあの頃。

ホナミは思い出をぼかす霧のように頼りない足取りで砂漠を進んで行った。

ホナミの足が砂遊びに疲れはじめたころ、彼女の目に砂の谷から飛び出した石積みが飛び込んだ。どうも何かの屋根らしい。ホナミは日陰を求めてその下を目指した。

屋根の下には狭い階段らしきものが地下へ続いていた。流れ込んだ砂が堆積して、階段かどうかは分からない。とにかく降りて行けそうな坂だった。ホナミは少しでも涼しい方へ、とにかく降りて行く。階段の先は同じく狭い通路になっていて、たぶん砂に続いているのだろう。不意に呼びたくなって、ホナミは小さく弟を呼んだ。

「ヨブ……」

呟きと同時に、砂埃で汚れたホナミの頬に涙がすじを作った。彼女は力なく石の階段に座り込んで、袖に顔を押し付けてしくしくと泣き始める。いったん溢れ出したものはなかなか止まらなかった。そしてしばらく泣いて疲れきった彼女は、そのまま眠ってしまった。

ホナミは真っ暗闇の中で、頭に何かぶつかったのを感じてはっと目を覚ました。知らないうちに横に倒れて、壁で頭を打ったらしい。ホナミは目を開けようと思ってから自分が既にそうしていることに気付いて愕然とした。この尋常でない暗さは目を閉じているせいではないのだ。

「夜になったんだ」

舌打ちをして、手探りで砂の坂を這い登る。さらさらと砂を崩しながら、そこで彼女はさらに恐ろしいことに気が付いた。

眠ってしまっている間に砂嵐でもあったのだろうか、階段の出入り口はすっかり砂でふさがれていたのだ。ホナミの口から甲高い悲鳴がほとばしった。手が狂ったように砂を掻く。けれどそれはさらさらと音を立てるだけだった。

「誰か、助けて!」

無駄だと分かっていながらホナミは叫ぶ。砂埃にむせてあまり大きな声にはならなかった。ひとしきり咳き込み、ずるずると砂と一緒にまた下まで落ちる。何も考えられなくなった頭を抱えてとにかく息だけをしながら、ホナミはふと、ある音を聞いた。

その音は少しずつ近付いて来る。やがて、小く声が聞こえた。

「……誰かいるんですか?」

「います!ここにいます!」

ホナミは反射的に叫び返した。しばらくして、足音が大きくなり、砂蛍灯を持った声の主が通路の先から姿を現した。ホナミは安心したせいで立ち上がれず、ただ感謝を示すように大きく両腕を差し出した。しかし微笑んだその顔は、薄緑の砂蛍灯が照らし出したその姿に凍りついた。

白い肌、肩にかけられた束ね髪の色も白、目の色は空よりも淡い青―――ホナミは差し出した腕を火に触れたように引っ込めて、胸元で手を握り合わせた。白い人は苦笑いして、彼女から離れた位置に立ち止まった。

「この見た目が驚かせましたか?……私は生まれが大山脈の向こうなのです」

彼は穏やかに告げた。ホナミは黒い目を見開いてその言葉を繰り返す。

「大山脈の向こう?」

「ええ。リヴァと言います」

「なにを?」

困惑したホナミの問いかけに、白い人は鷹揚に笑った。

「私のことです」

その答えにホナミはさっと顔を赤らめた。しどろもどろに謝ると、リヴァは構わない、と首を横に振る。驚かれ慣れているのだろうな、とホナミはおぼろげに考えた。柔らかい表情がホナミの警戒心を砂を削る水のように溶かして行く。

「その……ここから出られなくなって困っているんです。この先が砂で埋まっていて」

これ以上さらす恥はないとばかりに、彼女は打ち明けた。リヴァは意味のない微笑を浮かべる。

「あぁ、良くあることです。それなら別の出口まで案内しましょうか?」

「それは、ぜひ!ありがとう!」

ホナミが表情をぱっと明るくして、飛びつくように何度も頷いた。足が力を取り戻して、われ知らず立ち上がる。リヴァはそれを見届けてから踵を返した。

「ついて来てください。この先、広くなるところがあるのではぐれないように」

彼はゆったりと言う。その腕の先で、砂蛍灯が揺れていた。ラクラの茎から作った薄布の袋に砂蛍を数匹入れて、まだ若いスナクイの細い角にくくりつけたのが砂蛍灯だ。ハフルの祭りには欠かせない、神を迎える灯。思わずホナミは呟いた。

「あ……祭りなんだ」

砂に食われる足音の間で、その声はやけに大きく聞こえる。リヴァが半分だけ振り向いた。

「ハフルの?」

「はい」

「あなたも行くんですか?」

問われたホナミは一瞬だけくちごもった。

「行きません。……祭りなんてないんです」

「おやおや」

微笑を含んだリヴァの口調に侮りのようなものを感じたホナミの顔に血が上る。彼女は俯いたが、すぐに異変に気付いて顔を上げた。

細い通路から広間のような空間に出た。天上が高くなって、壁も見えなくなる。暗闇の中にさらさらと砂が降ってきている音がしていた。一ヶ所や二ヶ所ではないのかもしれない。

「ここは何なんですか?」

ホナミはすこし足を速めてリヴァの背中に近付きながら尋ねた。

「はっきりしたことは分かりませんが、水路だったのかもしれませんね」

リヴァは肩をすくめる。白い髪が肩の上でちらりと光った。茫漠とした暗闇の中を、彼はしっかりと歩いて行く。

「水路?」

「そうです。地下水の通り道です」

ホナミが尋ねると、リヴァは自信ありげに頷いた。二人はしばらく黙ったまま歩いていた。

「……水の匂いがする」

ふと、ホナミが鼻を鳴らした。リヴァがまた半分だけ振り返って口元の微笑を見せる。

「良く気が付きましたね。ちょうど上を通るところです」

リヴァはそう言って、いきなり方向を変えた。少し行くと、足元がぶっつりと途切れている。その端にしゃがんで手招きした彼の横にホナミも並んだ。砂蛍灯を伸ばして途切れた先を照らすと、砂の上をホナミの腕ほどしかない細さの水が流れているのが幽かに見えた。

「見ててごらんなさい」

リヴァが言う。しばらく何の変化もないまま二人は水を眺めていた。

ホナミが何なのか問おうとしたとき、耳を塞ぐような静寂の中にふしぎな音が響き始めた。それは大勢の足音にも似ていた。ホナミは怖くなって、それが聞こえる後ろを振り返る。けれどすぐにリヴァが彼女の袖を引いて正面に向き直らせた。

彼女が目を離した一瞬の隙に、水流は倍の太さになっていた。それがさらに倍、さらに倍と力強くなって行く。あっという間に足元まで迫った水流を、彼女は言葉も無く見つめた。

「地下を流れてハレの海まで行く水ですよ」

リヴァが得意そうに言った。海という言葉がホナミの心をひっかく。ホナミを海へ連れて行ってくれるはずだった弟は、もう彼女の傍にいないのだ。

「海……さっき夢で海を見ました。水がすごくしょっぱかった――涙を濃くした味でした。川が悲しいことだとか、悪いものをみんな海へ運んで行くのはきっと本当です。どうしてあれにハレなんて名前がつくんだろう」

ホナミがとつとつとそう言うと、リヴァが声を立てて笑った。ホナミはむっとして彼の白い首筋を睨む。リヴァは笑いをたたえた水色の目でホナミを一瞥して、立ち上がった。ホナミもそれに習い、水音に追われながら二人は歩みを再開した。

「知っていますか?全ての命は海から生まれたのだそうですよ。川になる雪も、その元になる雲も、海の水から来るものなのだとか」

緩やかな流れのような掴みどころのない話しに、ホナミは顔をしかめた。

「でも、川は災いごとや悲しい思い出を砂の中から運び去ってくれるんです。だから砂の上でもラクラは育つし、スナクイは砂を食べて生きられるのに」

腑に落ちないと声で訴えるホナミに、リヴァはあいかわらずたゆたうような穏やかさで答えた。

「海が涙の塊だから、そこから川が生まれるのが不思議で、とても良いことなんじゃないかと思います。悪いものからでも良いものが、良いものからでも悪いものが生まれることが」

ホナミは彼が言ったことを考えるのにしばらく口をつぐんでいた。

「リヴァは、ここで何をしているんですか?」

ホナミがやっとそう尋ねた矢先、リヴァが振り向いて止まった。ホナミもびっくりして足を止める。砂蛍灯の光がゆらゆらと揺れた。彼の後ろに、その光と良く似た星の光が見えていた。

「約束があって、待っているのです」

立ち止まっているホナミへ、彼は滑らせるように腕を振って先へ行くように促す。彼はにっこりと笑って続けた。

「祭りへ行くと良いですよ。憂いは川が運んで行ってくれるのでしょう」

ホナミは良く分からないながら頷いて、歩き出した。

「ありがとう」

リヴァの横で彼を見上げて、その水色の目と彼女自身の目を合わせる。

「どういたしまして」

銀色の声が降って来て、彼女は押し流されるように出口に向かった。星々を見えない線で結んで、進むべき方角が分かる。今日も動き続ける砂の丘を登り、彼女はスナクイの影を見た。明るく光る砂蛍が舞い上がって、褐色の肌を照らし出す。ホナミにはその光が染みるようにはっきりと見えた。言葉もなくスナクイの手綱を放した少年に駆け寄るなり、ホナミはその肩を掴んでガクガク揺さぶりながら叫んだ。

「ヨブ!このバカ!」

「ごめん、ホナミ。スナクイの傷が少し良くなるのを待ってたんだ」

舌を噛みそうになりながらヨブが応える。

「あの灯りは川が来たの?それとも僕らの葬儀?あと五人は帰って来てるんだけど」

ホナミはヨブが指差した方に空を染めんばかりのハフルの灯りを見つけて、頷いた。

「祭りだよ」

星が手を差し伸べるようにヨブが笑う。

「川が来たんだね。生きていけるんだ、ラクラもスナクイも僕らも。ホナミ、祭りに行こう!」

懐かしい声が水音のように明るく弾んだ。ヨブは涙の海から帰って来たのだ――川を連れて。ホナミは雪解けのように仕方なく頬を緩めて、応えた。

「うん、行こう」

ヨブが片手にスナクイの手綱を取って、もう片方にホナミの手を取る。二人は砂の上を並んで歩いて行った。

耳を澄ませば、ここまで音楽が聞こえて来る気がする。誰かが砂蛍を逃がしたのか、町から光の粉が立ち上っているようにも見えた。

川の神の祭りはまだまだこれから盛り上がるところだというのに。