水晶の鳥は誰のものか

イミエの姉は、水晶の鳥を夢に見て西の風宮に上げられた。こんなふうに空がゆるぎなく冴えて、真っ白な光が地を射るように降る日には、離れて何年にもなる彼女のことが思い出される。

「姉ちゃん、暑いよう」

横からかぼそい声がして、イミエは空を仰いだままぼんやりしている自分に気がついた。隣を振りかえると、今年七つになる妹が辛抱強いまなざしでイミエを見上げていた。イミエは悪いことをしたと思って、

「日陰にいってな。あんまり日向にいると地下に魂を取られるよ」

と、少し木の生えた方へ押してやった。麻の背中はしっとりと汗のしめりけを帯びていた。ずいぶん長いこと、立っていたのだろうか。キサーラは、「姉ちゃんもね?」と念を押すように言いながら近くの木陰に逃げこんだ。

お昼のためにチソの葉をつむはずのザルは、空のまま足元に落ちていた。イミエはのろのろとそれを拾いあげて、草を選りはじめる。

「姉ちゃん、なにかんがえてたの?」

キサーラが草むらにしゃがんで、姉の手仕事を見守りながら訊ねた。

「姉ちゃんの上の姉ちゃんのこと。あんた、ウティカ姉ちゃんのこと覚えてる?」

イミエが聞くと、キサーラは「ううん」と首を横に振った。それも仕方ないだろう。ウティカがいなくなった時キサーラはまだ赤ん坊に近かったし、家では、消息を聞くわけでもない二度と戻らない娘について、わざわざ口に出したりしないのだから。

「ウティカ姉ちゃんはね、西の風宮で鳥神様にお仕えしてるんだよ。このあたりに良い風が吹くのは、ウティカ姉ちゃんがしっかりお勤めを果たしているからなんだって。……ウティカ姉ちゃんは、今の姉ちゃんの年の時に西の風宮にいったんだ」

「鳥神さまって風神さまのこと?」

「そうだよ。お姿は鳥だから鳥神さまっても言うの」

「姉ちゃん、それ硬そうだよ」

イミエは一瞬なんのことか分からずに妹を見た。キサーラはもういちど「それ」と言って、イミエの手元を指した。イミエが手のひらよりも大きい葉をつんだのに目ざとく気がついたのだ。

イミエはちょっとその葉をひっくり返したりしてみたが、ぽいとザルに放り込んだ。

「つんでしまったものは仕方ないでしょ」

イミエは、このような作業は嫌いである。肩をすくめて、別の株の方へにじり寄った。二人の母は用をいいつける時こそ「キサーラにチソの選び方を教えるように」と言ったが、実のところはキサーラにイミエの仕事ぶりを見張らせる腹だろう。わざわざ教えなくとも、キサーラはいろいろなことを見覚えて知っているのだから。今もまた、言いもしないうちに蚊遣り草を見つけてその葉をもんでいた。

「ねえちゃん、日陰もあんまり涼しくないねぇ」

汁けを帯びた三裂の葉を細っこい手足にこすりつけながら、キサーラが正直な感想を口にした。いつからだろうか、風がぴたりとやんでしまっていた。

薬味の青臭さに取り囲まれたイミエは、腰をのばして、風のいどころを見定めるかのように首をめぐらせた。

二人の家の軒をすかして、川から引かれた細い水路が見えた。水路をなぞって並んだ草葺きの屋根が、強い日差しに白けている。それらの軒先で、石の小刀をつらねた魔除けの飾りがだらりと垂れさがっていた。家々の向こう、葛の這うこんもりとした野原は、ひるがえる葉もなく、まるで別人のように取りすましていた。

裂くようなセミたちの声が、あたりを握りこんでいた。強い日差しの下で濃い闇を抱いた雑木林が、うつろな表情でイミエを見つめかえした。

どこにも風がない。

「珍しいね、睦の月でもないのに……」

そんなつもりはなかったのに、声は不安なひびきを持って、しりすぼみに消えた。

それから何日も、暑い日が続いた。風は末期の息のように弱々しく、涼しさなど望むべくもない。晩秋の実りにむけて開きかけた花は、降りつむばかりの熱にしおしおと頭を垂れた。浅くなった水路のぬるい水の中では、小魚たちがせまそうに群れていた。

ついに家のそばの水路では洗濯がままならなくなったので、イミエはその日、しかたなく川まで足をのばした。ほんのわずかな距離なのに、洗い桶に沿わせた腕やお腹がすぐに汗ばんできて、不快なことこの上ない。日向に出るとたちまち日射が首や肩を焼いた。イミエは、これが洗濯ではなくて、もっと上流の蛙淵に泳ぎにいくなら良いのにと思わずにいられなかった。

去年はよかったな、と、しみじみ思い出す。キサーラはまだ川遊びを許されていなかったので、イミエはほとんど毎日、友達と連れだって川辺を跳ね歩いていた。両腕でやっと抱えられるくらいの大きな鯉を捕まえたり、仲間のだれより高い岩から淵にむかって飛びこんだりした輝かしい夏だった。

それが今年は、何をするにもキサーラがついてくると言って聞かないせいで。遊び仲間のキリテが最後に誘いに来たとき、彼がイミエに話しかけながらちらりと、いかにも邪魔そうにキサーラを見たのが忘れられなかった。その後、案の定だだをこねだした妹をひっぱたきたいという衝動を、イミエは歯を食いしばってこらえたものだ。

キサーラがかわいくないわけではない。けれど、今年はだれかがイミエと同じ岩から飛び込むだろうし、魚とりだって今度は石積みで流れを塞き止めて大がかりな罠を作る計画が出ていたのだ。それに参加できないことを思うとたまらなかった。友達の半分がイミエの知らない思い出についておしゃべりをしているのを聞くと、じわじわと胸から血が出るような心地がした。

(風宮に行きたい)

イミエは暗い気持ちで希求していた。村の外であれば、絶対にキサーラはついてこられない。

それに、姉のウティカに神殿に勤める資格があるというのなら、イミエにだってあるはずだった。水晶の鳥の夢ならば、イミエだって見たのだから。年の近い縁者がつき従って一緒に宮に上がるのも、良くあることだ。しかし、大人たちはイミエの夢を笑い、取り合おうとはしなかった。

イミエは姉を訪ねる自分を夢想した。ある日、山ノ上のばばさまが、使者として自分を名指しする。イミエは山ノ上の祠で、神聖な務めを負った人を示す赤い額飾りを授けられて、この暑さの源を訊ねてくるように言いつかるのだ。神に仕える娘の妹だ、血筋も申し分あるまい、と。

洗濯をしていると、後ろから名前を呼ばれたので、イミエは振り返った。村の方からやってきたのは、同い年のタスーリだった。ふっくらと娘らしい体型の少女で、七人兄妹のまんなかだ。上の姉二人はもう嫁いでいて、彼女自身にも早くもそんな話が出ていると言う。

タスーリはおっとりと笑って、挨拶をよこした。

「水は甘い?」

「甘い。風は甘い?」

「甘いはずなんだけどねえ。この暑さには参るよね」

タスーリは服が山になった洗濯桶をどさっと岸辺におろし、小走りで川に入って体に水をかけた。

「ほんとに。お日様の悪口は言わないけど」

イミエは左の手のひらで口をふさぐようなしぐさをしてから、太陽から目が隠れるようにひさしを作って軽く頭を下げた。

「今日はキサーラは一緒じゃないの?」

残念そうな声音が、イミエの心のどこかを逆撫でした。

「洗濯なんてこないよ。楽しいことなら何がなんでも付いてくるくせに」

トゲのある言い方に、タスーリが苦笑している。イミエは言い訳するように、先を続けずにはいられなくなった。

「七つになったら急に大きくなったみたいなつもりになって、どこでも行けると思ってるんだから。おかげでこっちは、あの子が無茶しないようにずっと見てなきゃいけないハメだわ」

タスーリは柔らかく笑った。

「七つくらいってそうなのよね。でもキサーラはとてもしっかりしてると思うよ。この前うちで弟たちと遊んでいた時にね、たまたまイサルがきれいな石を拾ったの。あの子はそれをキサーラにあげたんだけど、テミュスがすごく欲しがってぐずったのよ。そうしたら、キサーラはその石をうちの祠に供えたの。この石はイサルが貰った、うちへの贈り物だって。頭のいい子よ。あれなら二人とも好きなときに石を眺められるし、石をあげたイサルも困らないもの」

へえ、と、イミエは気のない相づちを打った。その場にいれば、イミエだって同じようにしただろう。争いの元は神様に預けなさい、というのはイミエが母から教わって、キサーラに教えたことだ。

いつでもその言いつけを守るつもりでいるけれど、他の誰かが欲しがるようなものを、貰ったことがなかっただけ。同じはずなのに、キサーラだけ立派だ、賢いと誉められていることが、イミエは気にくわなかった。

「偉いねって言ったら、姉ちゃんが教えてくれた通りにしただけって言ってたわ」

タスーリが気を使って付け足した。そこがまた嫌らしい、と言うかどうか、イミエは迷って、けっきょく鼻で曖昧な音をたてた。ぬるい汗が手首を伝って洗濯桶に落ちた。イミエはしばらく、黙って洗濯に集中した。

汗と垢のついた衣服を、力任せにごしごしともみ合わせる。洗濯桶に入れたミバルという草が、つんと青臭くにおった。イミエは洗濯もあまり好きではない。洗っても洗っても、濁った水が出る。母は、それは生地の色が出ているだけだと言ったけれど。

普通は、桶の水を捨てたら、やや粘りけのあるミバルの汁を川ですぎ、絞って終わりにする。しかしイミエは川ですすぐ前に洗濯桶にもう一度水を張った。タスーリがふしぎそうに見ているなかで、イミエは岸辺からなにとも言わず草を少し抜いてきて、服と一緒に桶に放り込んだ。

「何してるの?」

タスーリが訪ねる。イミエは草と洗濯物を足で踏みながら答えた。

「ミバルって汚れは落ちるけど、くさいさ?他の草で匂いを変えられないかと思って」

「へえ……」

タスーリは感心しながらその様子を眺め、成功したことがあるのか聞こうとした。

その時、村の方から聞きなれた声がして、二人の注意はそちらに引き付けられた。タスーリのすぐ下の妹のクシナウリが、走りながらタスーリを呼んでいた。

「ああ、イミエ姉。甘い風を」

二人のあいだに走り込んでくると、息を切らして膝頭に手をつきながら、クシナウリが挨拶した。

「甘い水を。ほんとに飲む?」

イミエは目をしばたいた。クシナウリは首を横に振る。

クシナウリはタスーリとはあまり似ていない、ほっそりした快活な少女だ。イミエとは気が合って、遊びに行くときはよく一緒に歩いた。

「どうしたの?」

タスーリも驚いていた。

「あのね、山ノ上のばばさまがね、西の風宮にお使いを出すって」

その言葉を聞いた瞬間、イミエの心臓がまったく新しい鼓動を打ち始めた。太鼓のように、力強く、響く。

姉のウティカが宮に上がった後、イミエも同じように、水晶の鳥を夢に見た。大人たちは笑って相手にしなかったけれど、本当に見たのだ。鳥の神様は、あのとき呼び損ねたイミエを呼ぶためにこのような暑さをもたらしているという筋書きは、太陽が西に昇るほどありえないだろうか。

イミエは川の上流を振り返った。イミエたちが遊び場にしている三の山、子供には許されない二の山、その背後にもっとも丈高く、ばばさまの庵を抱いた一の山がそびえていた。頂上に近いあたりの茂る緑の陰に、小石で葺いた屋根の灰色が小さく見えている。雷から取ったという聖火の煙が、まっすぐに空へのぼっていた。

「あたし、お使いにしてくれってばばさまにお願いする」

イミエは空を見たまま、決然と言った。本当は頭の中だけで言うつもりが、気付いたときには声が出ていた。タスーリとクシナウリがそっくりな驚き顔でイミエを見る。

「すごい。頑張って、イミエ姉」

「何いってるの、クシナウリ。イミエ、叱られるわ。二の山より先に入ってはいけないじゃない。迷って帰れなくなったら大変よ」

一拍の間を置いて現れたのは、正反対の反応だった。

イミエは洗濯桶をひっくり返して、古い水を勢いよく捨てた。そのまま川の中へ持って行き、新しい水でザブザブとすすぐ。

ほの温い水で顔まで洗って岸に戻ったイミエを、姉妹は片や心配、片や期待の眼差しで迎えた。

「イミエ、お使いにはもっと年上の男の人が行くものよ。年初めと年中のお伺いだってそうじゃない」

「でも誰が行くかは、いつも脚競べで決めるでしょ?脚競べに出ちゃ行けないのは、前の時に勝った人だけよ。女の子がダメなんて、言われたことない」

黙々と洗濯物を絞っているイミエにタスーリが言い、クシナウリが生意気に返した。珍しくタスーリがきつい目で妹をにらむ。

「道は覚えてるの」

イミエは洗濯桶を抱えて立ち上がり、目顔でタスーリに謝りながら、呟くように言った。タスーリは口を閉じるのも忘れてイミエをただ見返した。賢明なタスーリは、大人がだめと言った場所に近付いたりしないだろう。クシナウリですら驚いていた。

「年に一回のお参りだけで……ってことはないよね」

タスーリは目を落として、少し寂しそうに言った。イミエは頷く。

「ときどき父ちゃんの後をつけてた。三の山で遊ぶときも、しっかり踏み分けた道がない時は枝に布を結んで目印にするでしょ?一の山に行く道には、白い布が結んであるんだよ」

ずっと誰にも言わなかった秘密を話してしまった。けれど、タスーリをここで説得しなければ、イミエは山に行くことができない気がした。

「イミエ、なら脚競べに出れば良いじゃない。あなたが使者に立つべきなら、脚競べに勝つはずよ。少なくともそれなら、途中で迷ってもどこまでかは見ている人がいるし。そうだ、今行ったって、抜け駆けするような人をばばさまが選ぶと思う?」

「ばばさまの仰ることを只人が推し量るなんてできないよ。それにカナリのひいじいちゃんは、中池の主様の宴会に行きそびれた、道が見えたときにすぐ行かなかったせいだって、死ぬまで言い続けたって。
……あたしは、あの時いっていればって、これ以上思っていたくない」

タスーリの会心の問いをかわして、イミエは強く言った。タスーリは、いつになく心細そうな顔でイミエを見た。今まで見たことのない顔だ。言いきって踵を返すこともできたイミエが、つい釘付けにされるような。

不意に熱風が顔面に吹き付けて、イミエはこめかみに垂れた汗を腕でぬぐった。

「……イミエ、やっぱりウティカ姉について行きたかったのね」

イミエははっと息を吸った。肺が熱い。

「ちがう」

イミエは火を吐くように言い捨てて、今度こそ逃げ出した。

「イミエ姉、がんばって!」

川原にごろごろしている小石によろけながら足早に去っていく後ろ姿に、クシナウリが快哉を送った。そのとたんに後ろ頭をタスーリがはたいた。

二の山には、子供を食う鬼がいるという。三世代に一人くらいは、背伸びをして二の山に入り、鬼にとられて戻らない子供がいるのだ。だから年の始めに村が総出で一の山に登るときは、鬼が嫌う鈴をつけた杖を突き鳴らし、大人が子供を囲むようにして足並みを揃えて行く。

しかしイミエは、それはただの口実だと思っていた。確かに二の山は一の山より道が分かりにくいし、這うようにしないと登れない場所もある。クマやイノシシもいるし、オオカミもいる。でも鬼は見たことがなかった。

大人はそうやって、子供を子供の枠に閉じ込める。まだ分からないんだ、できないんだと言って、伸びていく手足を縛ろうとする。外へ向かう目に布を巻いて、本当になにもできなくするのだ。

イミエはいつの間にか、炎天下を走っていた。ぎりぎりと空気をこするようにセミの群れが鳴いている。焦げた緑の葉をうらめしげに垂れた木々とすれ違う。乾ききった土を蹴立て、服の袖から水滴を振り落としながら、まつしぐらに走った。

軒に吊るされた魔除けが風圧で音もなく揺れた。勝手口に飛び込むと、母のサラナが何事かと顔をあげた。イミエは入り口に仁王立ちした格好で、日陰の闇に目を細める。

「ねえちゃん、おかえり!」

土間に軽石で絵を描いていたキサーラが、顔中で笑いながらぱっと立ち上がる。

「あんた、どうしたんだい、そんな汗みずくで」

サラナは、滝のような汗をしたたらせ、肩で息をしているイミエの様子にただならぬ物を感じて、顔をひきつらせた。それでもとりあえず、娘のために水を汲んでやる。

差し出された木の皮のコップを、イミエは首を横に振って遠ざけた。サラナはさらに押し付ける。

「いいから飲みなさい。湯気のたつような顔して、倒れてしまうよ」

イミエはその腕をよけて、洗濯桶を土間に置いた。サラナは少し後ずさって、辛抱強く待つ。

「今日は、帰らないかもしれないから」

イミエは母の目をとらえて挑むように告げた。

「なに?」

サラナは眉をひそめて問いただそうとする。イミエはそれを見るより早く身を返して、外へ飛び出した。

追いかけてくる声にも、何にも捕まらない。思うさま、走る。

道は、陽炎でぐらぐらと煮たっていた。その先で、木漏れ日と木下闇が絡み合っている。目に染みる汗をぬぐって見定めようとしても、一向に模様がわからない。休まないセミの声以外、なにも聞こえなかった。それでも土を踏みしめる足が、日差しに焼かれる首筋と頬が、自分の汗のにおいが、ほのかに現実と繋がっていた。

山道に入る。目がくらんでも、イミエは走り続けた。小さい頃から仲間たちと通い続けた、慣れた道だ。どこにしまってあったのか、涼気がひやりと肌をなぜた。

笹竹やシダで埋められた斜面のどこかから、聞きなれた声のこだまが聞こえた。イミエではない誰かと呼び交わす声だ。イミエは一人、山道を登っていく。

一の山の峠にさしかかったあたりで息が切れて、少し休憩した。頂上と言っても見通しは悪く、曲がったりくねったりしながら成長した木々が枝と葉で空を遮っていた。

彦生えの出始めた切り株に腰かけて、イミエはふと空腹を感じた。胃袋が自分自身を絞って、中になにもないことを訴えている。それと同時に、姉のウティカと一の山に入ったことを思い出した。

「お腹空いたの?じゃあ、木苺でも探そうか。先のギザギサしたこんな形の葉っぱでね、あまり背が大きくない、細い木だよ」

ウティカは指を揃えた手のひらをなぞって、木苺の葉を描いて見せた。いつか、二人で食べきれないほど木苺を採って帰って、ウティカが父親のカナテに叱られた時だ。

ウティカは十三の時に夢を見たのだから、五つ下のイミエと一緒に山を歩いたのなんて、ほんの一年くらいのはずだ。それでもイミエは、ほかに魚の獲り方や、足元が良くない時の歩き方など、数えきれないくらい色々なことを教わっていた。

それはつまり、それだけ沢山の時間を、ウティカがイミエと過ごしてくれたと言うことだ。

イミエは立ち上がった。空腹を無視して、歩き出す。積もった落ち葉で滑りやすい下り道を、二の山に向かって降り始めた。

谷底までするすると降りて、イミエはまた一休みすることにした。冷たい沢の水で喉をうるおして、口許を汗の染みた肩口でぬぐう。体はほてっていたけれど、森の中だからなのか、やや涼しくなったようだった。

腰かける岩にはことかかなかった。荒沢と言うだけあって、イミエの身長ほどもある岩が、木の根や腐葉土に戒められていた。これを越えれば、二の山だ。

二の山には、大人たちが猟や採集に来る。登り口は踏み固められて分かりやすいけれど、やがて獣道のようにかそけくなる。後は、枝に結ばれた目印が頼りだ。

侵入者であるイミエは、ただ目印を追えば良いわけではなかった。踏み倒された草や、ぬかるみに残された足跡に気を付けて、誰にも見つからないようにしなくてはならない。やかましいセミの声にまぎれてクマ避けの鈴が聞こえないか、耳を澄ましていなければいけない。

木間から透かし見ると、もう東向きの斜面が影に入っているのがわかって、イミエはどきりとした。日が当たらなければ涼しくなるのも道理だ。

イミエはもちろん明かりの用意などしていない。つまり、一の山の庵に着く前に日がくれてしまったら、真っ暗闇を歩くことになるということ。足を踏み外す危険はもとより、オオカミの群れに出くわしたら命はない。

イミエは休みもそこそこに立ち上がって、二の山を登り始めた。

茂みを揺らす音がして、イミエはびくりとしてあたりを伺った。若い鹿が一頭、首を伸ばして立ち止まり、小バカにしたように耳を回してから、さっと斜面を駆け降りていった。

いつの間にか、気の早いユウゼミが鳴き出していた。叫ぶような声は薄れて、ときおり季節外れのハルヨビドリがさえずるのが聞こえた。振り返ると、谷底にはじわじわと影が染み出て溜まり始めるようだった。

戻りたくない。早く、先に進まなければ。

イミエはちっともはかが行かないことに苛立っていた。小さい子の脚に合わせて登る年初の祭りより、ずっと早く着くつもりでいたのに。実際、風宮への使者を決める脚競べでは、夜明けとともに庵を目指して村を出た若者たちが、昼ごろには帰って来るではないか。

イミエの脚では、男達が全員雷にでも打たれない限り、正当な使者選びで勝てないのだ。

イミエは歯噛みした。道は右へ左へ、ためらうように行きつ戻りつしながらゆるやかに登っていく。そんな悠長なことを、している暇はないのだ。イミエは今すぐ、この瞬間に、頂上に出たいのだ。

イミエはがむしゃらに斜面にとりついた。

木の根に足をかけ、山芋か何かの蔓をつかみ、無理矢理に体を持ち上げる。四つん這いになれば、どうにかよじ登れないでもない。茂みを掻き分けて、クモの巣を破って、獣のように突き進んだ。

――誰が何て言おうと、風宮に行くのはウティカだけだよ。

昔、母親が叱るように言ったことがとつぜん耳によみがえって、イミエは足を踏み外した。あっと声をあげた時にはもう遅い。体が斜面からあっさり剥がれて、世界が残像を引きながらぐるりと回った。

イミエはほのかに湿った地面の上にうつ伏せになって、しばらく動けずにいた。閉じた目尻から涙がこぼれた。

水晶の鳥なら、イミエだって夢に見た。何度も何度も、夢に見た。

夜明けの光を導く白い鳥がまっすぐにイミエを指して飛んで来る。なかば透きとおった翼にやさしい風を絡ませて。そしてイミエの差し出す腕にとまり、誰よりも尊い者として彼女の名前を告げるのだ。この世に欠けてはならぬもの、存在するだけで許された者として。

その時、イミエは慈悲と清さを持った巫女になる。しょうもない子供でも、優しくできない姉でもない、本当のイミエが目覚める。

目を開けると、イミエはただの少女だった。

なぜ、同じ親から生まれてウティカだけが聖なる仕事に就くのか。なぜ、同じように育ってキサーラだけが、賢い、聡いとほめられるのか。

では、神様はイミエに何をくれた?

みじめさだ。

悔しさだ。

自らの熱で焦げてついていく黒い心だ。

……違う。何も、くれなかったのだ。

イミエは泣きながら地面に爪をたてた。泥が爪の間に食い込んで痛む。五指がぎりぎりと地面に筋を書いた。

浅い、ただの線。その意味を探る人とてなく、やがて雨か、他の足跡に消されるだろう。

バカバカしかった。

イミエは泥のつまって黒くなった爪先を口に含んだ。ざすざすと砂が解け、冷たい水と土のにおいが口中を満たした。

人差し指、中指、薬指。すべての指をていねいに舐め終えると、イミエは口の中の砂を唾液とともに吐き捨てた。

立ち上がって、服の前を払う。そして、目印を頼りに、ゆるやかな坂をふたたび歩き出した。