聖なる恩寵、あるいは

途中に休戦期を挟みながら三十年以上続いた戦いが、この春ようやく終結を見た。血統を理由に王位を要求していた隣国の王は、教皇の調停を受け入れて兵を引き、ユーゼビアは先王の甥の息子を君主として戴くこととなった。

教皇自らが王冠を授けた、その戴冠式からおよそ半月。

戦乱に追われた人々がそれぞれの家と畑に戻り始めていた。剣を取って戦った者たちも、故郷へか安息の国へか、いずれかに道を分かち。踏み荒らされたぬかるみから自力で芽吹いた麦が、か細くも鮮やかな新緑をにおわせている。

しかし。

目を上げて、トレア川に沿って下る斜面を見渡せば、そこは未だに戦場のような光景だった。終戦間際、最重要の戦地となったトレアノス砦は、大門を破られた無惨な姿をさらしていた。石の防壁はところどころ焼け焦げたり崩されたりしている。めぐらされた土塁には折れた矢が無数に刺さり、壊れて放棄された攻城櫓が取り残されていた。

ユーゼビアがトレア川を下る軍船の一群に気づいた時、トレアノス砦にはわずか百名の守備隊がいるのみだった。主戦場はずっと南の平原にあったからだ。トレア川は北からユーゼビアに流れ込み、西へ抜けていく川。隣国は鉄を産する南部の鉱山地帯を奪おうとしていると思われ、ユーゼビアの主力もそちらに集められていた。

船団の目的は、トレアノス砦の先でトレア川を渡るシュレイノス街道を抑えること。引いては、街道を西進していた教皇の使者を殺し、隣国に不利な条件での和平を阻止すること。隣国の主戦派が北方の漁民出身の傭兵を雇い入れて得た水軍だった。

水軍に川を制圧されて渡れなくなってしまえば、使者は隣国の首都へ行くことができない。トレアノス砦を守備するために、使者の護衛隊の一部が砦に向かった。事態を知った周辺の村々からは、義勇兵が集まった。

ユーゼビア軍は圧倒的な小勢でながら善戦して敵を四日間引き留めた。その間に使者は舟で川と国境を越え、主戦派の手の届かない範囲まで逃げ延びることができたのだった。

四日間に払われた犠牲は、正規兵およそ二百人。

近隣から集まった義勇兵およそ百人。

そして彼らを率いた乙女が一人。

フィリア・マーシュマールは、七代続くマーシュマール子爵家の長女だった。二人の兄が戦死したために十五歳の若さで家督を継ぎ、国境に近い領地を守って懸命に闘った。領民と親しく交わり、彼女のためならば、兵役を課されなかった者らも進んで武器を取った。

彼女が参加した戦いでは、必ず天候や偶然がユーゼビアの味方をした。信仰に篤く、家督を継ぐ前は聖籍に入っていたこともあり、いつしか聖女と呼ばれるようになっていた。

享年は十七歳。

彼女の墓は、トレアノス砦が建つ丘の上、荒らされた戦場から少し離れた場所に簡単に建てられていた。どんよりと曇った空の下、馬の蹄が掘り返して黒く禿げた丘と、毀れた砦を見つめている。人々が彼女の墓に参るために新しい道が刻まれていた。花の季節であれば、毎日新しい花が飾られたことだろう。今は、常緑の小枝を編んだリースが墓標の上に捧げられている。

湿った川風が冷たくそれを揺らしていた。新王はなるべく早く然るべき大聖堂へ移すことを考えているそうだが、近隣の住民は大反対で、彼女の土地から彼女を引き離さないようにと嘆願書を出しているという。

その墓の前に、暗い目をした少年が跪いていた。年頃は十五、六というところ。髪と目は黒く、体はまだ線が細いものの、剣を持つために鍛えられている。頭には清潔とは言いがたい包帯が巻かれていた。

少年の名はジルと言う。マーシュマール家に代々仕えてきた騎士の子で、フィリア兄妹と一緒に子爵の屋敷で育った。最初はフィリアの次兄であるヴィンセントに、その死後はフィリアに仕え、戦場を奔走する彼女の傍らに常にあった。そこにいて、フィリアを守ることが彼の喜びであり、全てだった。

最後の戦いのとき、ジルはフィリアの隣にいた。しかし剣を持って斬りかかってきた敵兵を退けて振り向いた瞬間に、後ろから何かで殴られて昏倒した。

その間に、守るべき人は逝ったのだ。

意識を取り戻した時、この世は煉獄に変わっていた。

あの人がいない。

世界がいったい何のために美しいのか、分からなくなった。

燃えるような夕焼けを見ても、清冽に輝く明け方の雲を見ても、野道に咲いた可憐な花を見ても。

それを知らせたい、あの人がいない。

涙が出るのは悲しみのため。

分かち合う人を失った、傍らの空虚さのため。

フィリアの死が信じられず、ジルは彼女の墓を掘り返した。遺体は棺の中で腐り始め、膨らんで異臭を放っていた。強烈な臭気にえづきながら、ジルは遺体を埋め戻した。

そこまでしてもまだ、辻を曲がった瞬間や、部屋のドアを開けた時、フィリアが現れるのではないかと期待するのをやめられない。

気が狂いそうだった。

毎日、ともすると数時間おきに墓の前にやってきて、その死を確かめる。

そして、きりきりと声を殺して泣いていた。

『胸を張りなさい!』

すべてを拒絶して目をつぶると、最後の声がよみがえる。

『臆して退くならば、私たちの死に意味はないでしょう。しかし勇敢に戦うならば、私たちは失われるのではありません。踏み止まる一秒一秒が、平安の時代として後にいる人々に贈られるのです。

神は常に、苦しむ者と共におられる。必ず、あなたがた全員の隣に立たれ、勇気を支えてくださる。その御手を払いのけない限り、私たちは最後に勝利するのです。

立ちなさい、戦士たちよ!倒れるとき、私たちの背の上を平和が歩いて行くでしょう』

最後の戦いを前にした夜明け、疲れ切った兵士たちは彼女の言葉に奮い立った。黄金と緋に燃えたつ暁を背負い、毅然と顎を上げた強い眼差しの中に、自分たちの進むべき聖なる道を見た。

ジルは耳をふさぎ、ぎゅっと目を閉じた。涙の滴が汚れたズボンの膝に落ちる。ずるずるとくずおれて、熱い目を両腕に押し付けた。

そのまま、どれくらいの時間をそうしていただろうか。

「会いたいか?」

唐突に、頭の上から声がした。

その低い声は、クリームのように滑らかで優しく、乾いた土に降る雨のようだった。

足音もしなかったのに声がしたことに驚いて、ジルは身を起そうとした。しかし、できなかった。手で押さえつけられているかのように、頭はおろか、指の一本も動かせなかったのだ。

「もう一度、彼女に会いたいか?」

再び、声が訪ねる。動けないジルは頷けず、必死で息を吸った。

「会いたい」

声は出た。会いたい、会いたいと何度も繰り返し叫ぶ。会いたかった。声が聞きたかった。いや、どちらもできなくていい、ただ彼女の夜が明けて欲しかった。

見えない声の主は、ジルが息切れするまでじっと待ち、それからまた口を開いた。

「彼女は遠い未来に、マーシュマールの血に連なって再び生まれてくるだろう。普通の人間には待つことのできない長い時間の先のことだ。しかし、お前の嘆きは天に届いた。望むなら、それを待てるようにしてあげよう」

肩に温かい手を感じた。慰めるように。

「お前は良く彼女に仕え、淫らな欲望に汚されない愛を守った。神はそれを見ておられたのだ。もしその愛が真実のものと誓えるならば、私がしばしお前の時を止め、彼女の転生を待てるようにすることを恵み深き方は許された。……ただし。その誓いがもし偽りであった時、お前はおぞましい化け物として永き時をさ迷うことになるだろう」

希望の言葉がゆっくりと語られるのを、ジルはむさぼるように聞いていた。答える声が聞こえないのではないかと思うほど心臓が高鳴り、喜びに体が震えた。

「心から、彼女を愛しています。私の中にこれ以上の真実はありません」

かすれた声でようやく言った時、見えない相手の微笑みが感じられた。その瞬間、ジルは渾身の力で体を起こした。

熟れ熟れた果実のような、甘い香りのする風が顔面を撫でていった。散り始めた雲間から射した光が目を射るほどまぶしく、あたりは鳥の声すらない、恐ろしいほどの静けさに包まれていた。

そして、地面に座り込んだジルの他には、丘の上に人影ないのだった。