隠し扉の上部に切られた小さな隠し窓が開いて、その周りがふと明るくなった。間を置かず、そこに誰かの目が現れる。しかし覗きこんだ人物は、リフェイル=アルシアの姿を見て声を飲み込むように身を引いた。
扉の前の男は、跳ね上がった心臓をなだめるように胸に手を当てた。起きていることを予期していなかったのもあるが、暗い色の夜着を着ているせいで、首から上だけが空中に浮かんでいるように見えたのだ。まだ性別の分かりづらい顔立ちには、亡き女王の面影が濃い。
去来するさまざまなものを首の一振りで見送って、男は中に声をかけた。
「殿下……このような夜分に、どうなさいました?」
リフェイル=アルシアはその声で相手がセナリだと知った。
「何も。眠れなかったので、少し歩いていました」
言い訳を口にしながら薄く笑い、踵を返す。セナリは彼が廊下にいる間は絶対に扉を開けないのだ。
再び取次を通って、居室でセナリを待った。壁際に寄せられた小卓に手燭を置き、そのそばの寝椅子で膝を抱く。逆側の壁には調度品のように大小の竪琴が寄り添ってたたずんでいた。小卓のそばの壁は数種類の笛がかけられていて、見回せば他にも、影の中に様々な楽器が沈んでいる。
扉を開閉する音が楽器の胴に響いたようだった。残響をやぶって近づいてくる足音は二つだ。つまり、手を下す役と見届ける役だろう。
やがて、セナリともう一人の男――ユールベが部屋の入り口に姿を見せた。光源が増えたために、あたりが少し明るくなる。
セナリは二十代半ばと見える若者で、細長い顔にあごひげを蓄え始めていた。くせのある栗色の髪は後ろで束ね、額に位階を表す編み紐のサークレットをいただいている。藍色と灰色の紐は、悪くない身分の証だった。
一方のユールベは、それより一つか二つ年上と思われた。太く編んで一方の肩に垂らした白っぽい金髪の上に位階のサークレットはない。生真面目そうな青紫の目はいつにも増して憂わしげだった。強力な後ろ盾も血筋の守りもなく王太子の暗殺という所業に関わってしまったのだから、末路は見えているというものだ。
ユールベはその両手で鶴首の白い陶器の水差しを持っている。運命の泉から汲みだした水を。
リフェイル=アルシアは、その水差しの中身を知っていた。そして、ユールベがセナリを出し抜こうとしていることも。
ユールベはリフェイル=アルシアを救おうとしている。そのことを、いばらと名乗る人物の手紙を介して伝えて来ていた。そんな遠回しな方法を取ったのは、ユールベとセナリがお互いを監視しあっていたせいだ。どちらも、片方が囚人と折り入って話せるような状況を作らないようにしていた。
ユールベはおそらく使用人の一人を買収したのだろう。この賭けの伸るか反るかに、彼自身の命運もかかっているからだ。王太子暗殺の下手人として始末されるか、救国の忠臣として生き延びるか。
最後に受け取った手紙では、毒を仕込みに行く二人を、廊下でやり過ごすように書いてあった。隙を見て取って返したユールベと一緒に逃げ、セナリを逆に閉じ込める段取りだ。
「新しいお水を持ってきてくださったのですね。それを一杯、いただけますか」
リフェイル=アルシアはユールベに向かって声をかけた。ユールベが顔をひきつらせてセナリを見る。セナリは咎めるような視線を返すと、リフェイル=アルシアにはぎこちない笑みを向けた。
「只今」
そう言って杯を取りに寝室の方へ向かう。すぐにユールベがリフェイル=アルシアの傍へ寄って来て、その腕を掴んだ。
「殿下、なぜ。いえ、今はお早く」
立ち上がって、と促す力に、リフェイル=アルシアは応えなかった。その代わり、暗い瞳でユールベの目をとらえて、静かに首を横に振った。
「喉が渇いているのですよ。……もっと、はっきり言わないと分からないのですか?」
ユールベがはっと息をのむ。リフェイル=アルシアは一瞬だけ微笑んで、目をそらした。
「あなたには、感謝しているのです。あなたは、できる限り優しくしようとしてくださった。これを叔父上に、渡してください。無体なことはしないはずです」
言いながら、寝間着のポケットから手紙を取り出して、ユールベの手に握らせる。意表を突かれて思わず受け取ったユールベだったが、すぐにそれを突き返した。その表情は険しい。
「正当な王位継承者の死と引き換えに長らえて、安楽に暮らせるとお思いか?このようなことは間違っています」
「離れて。僕はもう、どなたの手を煩わせるのも、嫌なのです。このうえ生き延びて、争いの種になるよりは――殺してください」
身を乗り出したユールベを、リフェイル=アルシアがそっと押し戻そうとした。
「お断りします」
ユールベはその手を強く掴んだ。
「どうして」
初めて顔をしかめたリフェイル=アルシアの視線をとらえ直して、ユールベは即答した。
「あなたは泣いておられる」
足音が近づいて来て、セナリが戻るのが分かった。