たがため 8

チロは部屋へ戻り、おとなしくヨエルの帰りを待った。静かにしていると、鳥のさえずりがうるさいくらいだ。やがて、コツリ、コツリと杖をつく音が近づいてきた。軽いノックに返事をしてドアを開ける。

ヨエルはチロを観察するように一瞥して、「もう具合はいいのか?」と尋ねた。

「はい。看病してくださってありがとうございました」

答えながらチロは笑おうとしたけれど、緊張でうまく笑えないのが自分でもわかった。

「診せてもらおう。窓際へ」

ヨエルは澄ました顔のまま、チロの横をすりぬけて窓のそばへ向かう。チロは途中で椅子をもってそれに従った。

「椅子はいい」

「そうおっしゃらずに」

「ならば君が座りたまえ」

「いえ、そういうわけには参りません」

ヨエルがあからさまに眉をひそめた。

「君は私の側仕えだろう?私が座るように言ったら、座りなさい」

「お話ししたいことがあるんです」

ヨエルは了承の溜息とともに杖を背もたれに預けて、椅子に腰かけた。チロはその前に膝をつく。ヨエルは少しかがみこんで、昨日と同じようにチロの目や口の中の様子をたしかめた。

「良いようだな。暑くなってきたからといって、薄着で体を冷やさないようにしなさい」

ヨエルはそう言って、手ぶりで立って良いと示す。彼自身も立ち上がろうとしたので、チロはすんでのところで背もたれから杖を取り上げた。

ヨエルが厳しい視線で難詰する。チロは杖を抱きしめて、首を横に振る。

「どうしてもお聞きしたいことがあるんです」

「私には話すことが無い」

「昨晩のあれは、何だったんですか?」

「ただの警告さ。言った通りだ。命が大事なら、ここを去りなさい」

ヨエルは駄々っ子を見るような目でチロを見ている。

「あなたが、僕を殺すんですか?……グレータさんはそう言いました。でも僕にはそうは思えないんです」

「グレータの言うことが正しいよ」

ヨエルは背もたれに肘をかけて、くつろいだ風に目を細めた。

「ホアントにベラルト、アンドロにウエゴ……ほかにも一人。みな、私が殺したんだ」

「嘘です。僕は詩の話しをしているわけではありません」

「ああ、死の話しをしているわけだ」

軽く答えて片手をあげたヨエルを、チロはじっと見つめた。聖務の時に見せるような外向きの笑顔に、かすかな苛立ちがにじんでいる。意を決して、チロは挑むように彼をにらみつけた。

「あなたは気の毒な方です」

ヨエルは白けたよう背もたれにかけた腕へ頭をあずける。金の髪に真昼の光がからんで輝いていた。その様は、神々が照らすのを楽しむために創ったかのように美しい。けれど、チロの脳裏にはどうしても、醜く老いさらばえた、偏屈なミーミラが思い浮かぶ。自分でなにもかも拒絶して、それでも孤独のために涙を流していた彼女が。

「僕の看病をしてくださった時の気配りは、優しさが無ければできないものでした。あなたは優しいんだ。殺すなら警告なんかしないでいいのに、あなたはそうはなさらない」

チロはコツリと杖をついて、その上に両手をのせた。こまやかに彫られた象牙の持ち手は、ひんやりと冷たい。

「田舎者だからって、バカにしないでください。僕を殺すとしたら、あなたではないことくらい、分かるんです」

ヨエルが目をそらした。チロは言い募る。

「話してください。僕を遠ざけないでください。誰もかれも近づけないなら、どうやってあなたは救われるんですか?」

その問いかけに、長い沈黙が答えた。

やがて、ヨエルが椅子の背もたれに手をかけて、無理矢理に立ち上がろうとした。椅子がぐらついて、転びそうになる。チロは慌てて腕をのばし、なんとか肩口を掴んだ。杖が倒れてカラカラと転がった。

チロの胸ぐらを掴んで、低い声でヨエルが言う。

「救いは死だ。少し待ってみるといい――義父が君に声をかけるだろう。僕の代わりに死んでくれないか、とね。ただし、その問いを聞いてからでは引き返せないぞ」

力なく、指が離れる。

「……どこかへ行ってくれ。僕は君を殺してしまう」

ヨエルは体制をなおし、ただ立って、チロが杖を拾うのを待っていた。杖がないと、彼は長く歩くことができない。

「僕たちには、逃げることしかできなかったんだ。逃げることすら――できないのも分かっていたんだ」

ホアントに身代わりの話しが持ちかけられた時のことを言っているのだろう。暗い夜をひきずるような声音だった。

まばたきをするまでの、十数秒。瞳にうつりこんだ影の、中心からのぞきこむ瞳の、その中にうつりこんだ影の中心からのぞきこむ瞳の幾千万の視線が、かたみ、かたみに繋ぎとおしては繋ぎかえして結びあう。

息をのんだ。

このうつくしいいのちは、形にならなかったもう一人のじぶん。

天雷にうたれたように、その思いが世界のすべてを塗り替えた。

チロは杖を拾い、ヨエルに差し出した。

「僕は残ります」

受け取ろうとした手が、動きを止める。ヨエルがいぶかしむようにチロの顔を見た。

チロは、ようやく色々なことに合点がいって、体の中がからっぽになったような気分だったけれど、むしろそれがおかしくて、笑った。

「家族から返事がこないのは、そういうことだったんですね。僕は、そうだったんだ――」

ほろりと、頬の上を温かい水がつたった。

「僕が帰ったら、家族が苦しみます。あなたが、生きてください」