たがため 7

チロは夜中に目を覚ました。まだ熱でぼやけた感覚で、いかにも薬というコリンの香がただよっているのを知る。顔をかたむけると、枕辺にコリンの束があるらしいのが分かった。朝摘んだにしては新しい。

ベッドを出て、手探りで灯をつけると、燭台のあるテーブルの上に、陶器のふたをした盆が置かれていた。イウラの甘煮だろうと予想して開けると、その通りで、なかば煮溶けたはちみつ色の果肉がとろりと甘い香りとともに控えていた。食欲はなかったのだけれど、添えられていたスプーンで思わず一口すくい取る。やわらかいイウラは舌でも簡単にくずされて、ほのかな酸味と染みるほどの甘味が口の中にひろがった。しめつけられた喉が抗議してむせたけれど、急に空腹を感じて、そのままもう一口ほおばった。

お盆の横には、カードが一枚置かれていた。見るとヨエルの字で「明日の支度はアリサに頼んだ。様子を見に行くまで部屋にいるように」と書かれていた。ヨエルの字は、ふだんから走り書きのように線が細く、流れ去るようだ。その掠れかけた線の陰に、今は優しさが見える。

涙が出た。それを拭くのもめんどうで、チロはしばらくそのままカードを視線で撫でていた。

新しいコリンの束と、おそらく温めなおしたイウラの甘煮を届けに来たのがヨエルであることは確信がある。なぜなら、普段の様子からしてこの梧桐館にいるほかの使用人たちがチロを気遣うなんて考えられないからだ。

なぜヨエルがこんなことをするのか、本当に分からなかった。この屋敷の人々は、チロの知らない筋書きのつづきをしている。

それを知らなければ、このまま訳も分からず翻弄されるだけなのだ。

翌朝、チロの熱は引いていた。起きた時にはすっかり日が昇っていて、ヨエルは聖務に向かった後だったので、チロは手早く身支度をしてから空になった食器を持って厨房へ降りた。

厨房ではグレータが朝食の準備をしていた。パンを焼くにおいと、香草を入れたスープの良いにおいが漂っていて、挨拶をする前にチロのお腹がぐうと大きく鳴った。

サラダにする野菜を刻んでいたグレータが驚いて顔を上げる。

「ああ、おはようございます。もう体はいいんですか?」

不機嫌なへの字口をすこしも崩さずにグレータが言った。チロに目をやったのはほんの一瞬だ。

「はい。イウラの甘煮、とてもおいしかったです。ありがとうございました」

チロは、彼女が見ていないのを知りながらも、笑いかけた。

「……光栄です。お皿はそこへ置いておいてくださいな」

グレータはそう言って、汚れた食器を入れておく桶を手で示す。チロは言われた通り、食器をそこへ入れて、盆とフタを片付けた。

「グレータさん」

チロが彼女の横へ行って話しかけると、グレータは手を止めて、怪訝そうに彼を見た。その目がチロの首筋に残った手の痕をみとめ、色が変わるように表情をけわしくする。

「あの方ですか?またなの?」

彼女は言った。

「グレータさん、教えてください。ヨエル様とグレータさんたちの間に、何があったんですか?」

以前は「言われた通りにしているだけです」とかわされた問いを、チロは再び口にした。グレータはぐっと唇を引き結んで、ねじるように顔をまな板の方へ戻した。

「あの方は、私の孫息子を殺しました。それから、最初の側仕えだったホアントさんも。あの方のために犠牲になったんです」

「亡くなった?僕は、嫌がって辞めたと聞きました」

「ははっ」

乾いた笑いが答えだった。

「亡くなりましたよ。あの方のせいで」

「何があったんです?」

「あの方がご自分の勤めも忘れてこの屋敷から逃げ出そうとしたんですよ。途中でホアントさんが亡くなったので、失敗しましたけどね。私の孫は、その手引きをした罪で殺されました。私への罰は、これです。私があの方を毒殺でもするなら、それで良かったんでしょう。代わりを探せますから」

吐き出された言葉の激しさに、チロは目を白黒させる。その様子を見て、グレータは嘲るような笑みを浮かべた。

「あなたは、本当に何も知らずにここへ来たんですね。あの方が何だと思っていたんですか?」

「知り……ません」

チロは心臓がぎゅっと縮まるのを感じた。

「供犠です」

どん、とグレータが乱暴に包丁を置いた。固い音がして、不幸なにんじんがごろりと転がる。

「この国を守る神のための供犠として殺されるのが、あの方の生まれ持った役目でした。王家から神官長の家に降される子というのは、そういうものです」

チロは言葉を忘れて、口をあけたまま転がったにんじんの行方を見守った。

「私たちの主人は、本来なら、三年前に神にささげられていたはずの方です。それなのに……恥知らずにもお屋敷を抜け出して、夜盗のたぐいに目をつけられて、時間稼ぎにホアントさんを見殺しにしたんです。あの脚ですからね、そうしないと逃げられなかったんですよ。ホアントさんは何日か経ってから、酷い姿で見つかりました」

包丁をにぎる手に、きりりと力がこもる。

「私の孫は、打たれて打たれて、顔どころか、腕も足も、どこが胴体かわからないくらい腫れるほど打たれて、牢の中で死にました。鞭打ち二百の刑でした。まだ十三だったんですよ。目も鼻も潰れていました。最期に私やあの子の両親がそばにいるのかどうかも、分からなかったでしょう。抱きしめても、痛むだけだったでしょう」

この気持ちがわかりますか、と聞かれて、チロは力なく首を横に振る。想像を超えるいたましさに、かけられる言葉など無かった。

「あの方だけは、のうのうとこの場所で、まだ息をしています。国を呪う言葉を吐いたから、その穢れがあるうちは、使えないと言って」

グレータは黒々とした声で言った。

「あの方は、この国の恥です。ホアントさんもティオも、とても優しい子たちだったのに。あの方はご自分が死ぬのが怖いから、代わりに側仕えを殺そうとするんですよ。その罪の穢れがあるうちは、儀式が行えないのをご存知ですから。だからこの屋敷の人間はみな、あの方を軽蔑しているのです」

「なぜ、それを僕に隠したんです?」

「旦那様が口止めを」

そう答えたグレータの目の冷たさに、チロはぞっとした。彼女は、チロが生きようが死のうが、どうでも良いのだ。つまり、ヨエルが罪を重ねて閉塞感にさいなまれながら生き繋ぐのでも、神にささげられて死ぬのでも、どちらでも良いと思っているだ。それが良く分かってしまった。

グレータは、顔をゆがめて薄く笑った。

チロは厨房から逃げ出した。その時なんと言って辞したのか、後でどうしても思い出せなかった。

厨房から出て、チロは梧桐館からふらふらと外へ向かった。館をとりかこむ梧桐の木々は、いつの間にか葉の陰から伸び出た花枝がけぶるように咲いている。芯に赤色を帯びた花が散って、きたならしく道をふさいでいた。踏みしだいて、前庭をつっきる。

広い庭をしばらく歩いているうちに、頭が回るようになってきた。

グレータの言うことが本当なら、ヨエルの優しさは、自分が手を下す前に死なれては困るというだけになる。しかし、ヨエルは「ここを去れ」と言った。神官長がヨエルの罪を隠すのも説明できない。まだ何か、グレータの知らないことか、隠したことがあるのだ。

庭を歩いているうちに、庭師のカーロを見つけた。瞬間、グレータとカーロが話していたことを思い出す。チロは駆け寄って、カーロに話しかけた。

庭木の枝を切っていたカーロは、驚いた顔で脚立から降りてきた。

「どうしたぇ?火事でもあったような顔してるが」

のんびりした口ぶりが、日の光のように温かい。チロは、昨日から起きたことを洗いざらいカーロに打ち明けた。

カーロは頷きながらそれを聞き、最後に長い溜息をついた。

「グレータぁ、そんな風に言ったんかぃ……。まぁ、無理もないなあ。あん人も、辛ぇ思いをしたんさ」

「でも、僕にはグレータの言うことが全部だとは思えないんです。そうだったら、ヨエル様はきっと僕に家へ帰れなんて言わないでしょう」

「そうさな。言わんだろうな。あん方も、お優しい方なんだ。菜園を見りゃ分かる。あそこん草花が、どったけ丁寧に世話ぁされてるか、見りゃ分かる」

答えて、カーロは髭をしごいた。

「ティオの――グレータの孫だがね――あの子の刑罰は、王の法廷で決まったもんだ。ホアント坊ちゃんは侯爵様のお子だったかんな、それを、亡くなった後でも、裁けなんだだろう。それに、ホアント坊ちゃんも酷い亡くなり方をして、その罪を誰かが被らにゃぁならなかった。もちろん、ヨエル様を咎められるはずぁなし」

「そんな、不公平な……」

言いかけて、チロは言葉をのみこんだ。不公平など、当たり前にある。ボーロイクでも、幼友達とチロが同じく悪さをしても、チロだけが罰を免れることはよくあった。

「不公平さ。そういうもんさ。儂なんぞぁ、この年までこうして平和に働けることに感謝するばっかりだ」

カーロは肩を落として苦々しく笑む。そうして、しわの寄った自分の手を撫でる。草の汁と泥で爪は黒く汚れて、皮膚は固くぶあつい。

「あんたぁ、ヨエル様を裁くおつもりかね?」

その言葉は枝切ばさみのように鋭利にチロに刺さった。老人の眼差しがおだやかにチロを見つめる。

チロは、首を横に振った。

「いいえ。僕は――あの方の、側仕えです。」

「なら、こんな噂話を集めてないで、本人と話しゃんせぇ」

カーロは、促すようにチロの肩をたたいて、梧桐館の方を向かせた。