たがため 5

チロは家族からの手紙を待っていた。リスコー家を出てからというもの、こちらは毎週欠かさず手紙を出しているのに、向こうからは書付ひとつ、伝言のひとつも返ってこないまま、数えてみればひと月にはなる。リスコー家にいたころに、弟たちがそれぞれの見習い先を世話していただいて、準備をしているという報せが最後だった。それから新しい環境でうまくやっているのか、母は子供たちがいなくて寂しがっていないか、チロはずっと気にかかったままだ。

チロはこの屋敷をとりまいているいくつもの秘密について話したかったし、自分がいったいどういう場所に来てしまったのか、誰かにきちんと説明してほしかった。けれどヨエルはもとより、梧桐館にいる人々はおしなべてそっけなく、言外に「用がないなら話しかけるな」という拒絶をにじませている。

自分のことを話し好きだとは思ったことがないチロだったけれど、この状況はさすがに、こたえていた。翌朝、ヨエルの身支度を手伝うために隣の部屋へ行くときも、ふわふわと雲を踏むように頼りない心地だった。

「おはようございます、ヨエル様」

中にかけた声が喉もとでからむ。

「ああ、おはよう」

ヨエルはいつも通り、自分で灯をともして着替えていた。少し待つと、寝室のすみにあるついたての陰から姿を現す。チロは上着の間からのぞく胸元のひだを整え、ベルトを締めなおして、柔らかいブラウスの生地をまとめたり引き出したりしながら袖を留めた。今日は、手首と肩口に濃い緑のびろうどを使い、黒と銀の糸で蔦の模様を刺したものだ。うずを巻く模様の上にろうそくの火がちらついて、なぜかめまいがした。

「チロ」

両袖をつけ終えたとき、珍しくヨエルが声をかけた。返事をして袖口から目を上げる。すると、真正面からヨエルと視線がぶつかった。驚いたチロは、「何か?」と首をかしげる。ヨエルは燭台のそばへ寄って、「こっちへ」と手招きをした。

呼ばれるままに行くと、やにわにヨエルが両手でチロの頬を挟んだ。チロが目を白黒させているのにもかまわず、ヨエルは顔を寄せる。そして、

固まっているチロの下まぶたを親指でべろんと引き下ろした。

「口を開けて」

にこりともせずにしげしげと眺めていたかと思えば、次はそんなことをいう。

「な、なんなんですか?」

チロが思わず抗議しても、「うるさい」の一言で一蹴された。次の瞬間にはぎゅっと頬を押されて、口を開けさせられている。慣れきった手際だった。チロがいったい何のことなのか混乱しているうちに、ヨエルは手を放す。

「今日の聖務にはついて来なくていい。かわりにグレータにイウラの甘煮を頼んでおいてくれ。あとは、アリサに言って菜園からコリンとペルガンを持ってくるように伝言を頼む」

「なにをなさるんですか?」

「気にしなくていい。……ああ、僕が戻るまで自分の部屋で待つように」

チロがぽかんとしていると、ヨエルはもう一度、用事をそっくり繰り返した。チロは訳も分からないまま、「はい」と言うしかない。ヨエルが何事もなかったかのように鏡の前に移動したので、チロも慌てて身支度のつづきにかかった。

おぼろげな感触に気付いて、チロは身じろぎをした。額に、ひやりとしたものが触れている。水や金属ほど冷たくないけれど、じっとりと熱い額に心地よいもの。

それから、自分が横になって寝ていることに気が付いて、はっと目を開けた。ヨエルを待っているあいだについ、整えたベッドに腰をおろしたのだが、そのまま眠ってしまったのだ。

「起きなくていい。すぐ行くから」

額にふれていたものが離れていって、聞こえたのはヨエルの声だった。チロは逆らって起き上がり、遅れてきた頭痛の激しさに思わずうめいた。

「火の気が勝ちすぎている時は、土の気をふくんだものを摂ってバランスを取るのが良いのだけれど……」

しずかな声で話しながら、ヨエルがチロの背と肩に手を当てた。ベッドに膝をついて、体で支えながらチロを横たえる。チロは槌でなぐられるような痛みに、ぎゅっと目を閉じて耐えた。

「頭痛があるならこれを噛むか、枕元に置くといい。コリンの葉は香りだけでも効くんだ。楽になったら、そこにイウラの甘煮と薬湯があるから、どちらかだけでも口にしておきなさい。その方が治りが早い」

つまり、チロは病気になったのだ。熱で沸いた頭のなかで、形にならない言葉がもんどり打って暴れていた。水音がして、つめたい布が額に当てられる。

「ごめんなさい……熱を出すのは、いつも、弟たちだったんです」

「……言っておくけれど、僕は何もしていないよ。これはただの風邪だ」

一泊の間をおいて、ヨエルが答える。目をあけると、ヨエルがチロをのぞき込んでいた。ふだんは頑なに視線が合うのを避けるのに。その美しい顔から不機嫌さをとりはらうと、優しげにすら見える。

「看病を、してくださっています。どうして……僕が、お嫌いなのでは?どうして?」

言葉にしてみると、ふたをしていた悲しさも一緒にあふれだして、目じりを濡らした。ヨエルは眉をひそめたが、非難しているというより、困っているふうだった。

長い溜息がもれる。

「ここが辛いなら、家に帰りたまえ」

「できません」

「なぜ?」

問い返されて、答えに窮する。口から出ようとした言葉がのどでつっかえて、目に回って涙になってしまった。

「命を失うよりは、得てもいない富をあきらめるほうが賢い」

ヨエルがチロの寝ている隣に腰をおろした。手を伸ばして、いっそ慈しむように首に触れる。火照った肌をなでた指は、なめらかに冷たく、同時に耐えがたいほど温かかった。

ぐっと、力を込められて、喉を。

「弟たちが」

「弟?」

もう片方の手が同じように、喉に這わされた。

「父を、悲しませたくない……」

その裏側にあるたくさんの言葉ごと、塞がれた堰を超える。