たがため 3

チロがほんの数舜、言葉を探している間に、ヨエルは興味を失ったようにチロから目をそらした。服の裾をなおし、寝椅子に立てかけてあった杖を引き寄せる。

「頭も鈍いようだ。僕から自己紹介するのか?」

ヨエルは立ち上がりながら言った。疑問形だが、答えを求めてはいない。チロは察して、口をつぐむ。正面に相対すると、ヨエルはチロより頭半分ほど背が高いようだった。

「僕はヨエル・アン=グラーニャ・ノス=フィデロス。現王フェリクス一世の第七子だが、今は神官長エンリ・アン=フィデロスの養子で、王位の継承権はない。私の側仕えとしてここに来た人間は君で五人目だ。君がここにうまく適応してくれることを心から願っている」

冷たい水が流れ落ちるような調子でそこまで言い切ると、ヨエルが左手を出す。一瞬、すべてを忘れてポカンとその手を見たチロだったが、はっとしてひざまずき、手の甲に口づけた。石にそうするほうが、いくらか温かかっただろう。

「チロ・ディ・ボーロイクと申します。このたびは、果報にもアルサル・グレバのリスコー様よりお声がけいただきまして、お側にお仕えすることになりました。ホアント二世陛下の御代より王の牧をお預かりしている一族の者で、」

「どんな理由でここに来たか知らないが」

チロの自己紹介を、無理やりにヨエルが遮る。

「僕が主として君に望むことは一つだけだ。『関わるな』」

チロは思わずヨエルの顔をじっと見上げた。ヨエルは心底不快だというように眉をひそめて、ふいと目をそらす。手をふりはらって背を向け、寝椅子から本を取り上げた。

「たった五文字がわからないほど愚かではないだろう。食事の時と外出の時以外は側にいる必要はない。手持無沙汰なら、厨房の手伝いでもしていればいい」

それきり、あっちへ行け、というように片手を振った。ヨエル自身も、部屋を出ていくそぶりを見せる。

チロは、ただバルドゥにうながされて、部屋から退出するしかなかった。杖とゆがんだ足音が背中合わせにはなれていった。

「あの……僕はなにか、ご機嫌を損ねるようなことをしたんでしょうか?」

互いの足音が聞こえなくなってから、チロがバルドゥに尋ねた。それは半ば希望だった。謝ればいいだけなら、話しは簡単だ。

「いいえ、あの方はどなたに対してもああなのです。最初は戸惑われるでしょうが、割り切ることです」

答えながら、バルドゥも決してチロの方を見ない。

「これまでは、バルドゥさんが代わりを?」

「いいえ。私はふだんは母屋でエンリ様にお仕えしておりますので。前の方がお帰りになってからは、アリサという下女が代わりを務めておりました。後でご紹介しますが、この屋敷に常にいるのはアリサとコックのグレータ、それから下男のホアントの三人です。ヨエル様はホアントがお嫌いなので、側へは寄らせません」

「はあ……。あ、前の方はケガをされたと伺ったんですけど、ヨエル様の脚も、ひょっとしてその時のものですか?」

この数時間のうちに紹介された顔と名前を頭の中でかぞえながら、チロは問いを重ねる。

「いいえ。あれはもっと古いものです。前の方は、お一人で、階段から足を滑らせたのですよ」

「ヨエル様と揉み合いになったわけではないんですね」

チロが思わずそう言ったとき、バルドゥがはたと足を止めた。チロは、内心でしまったと思いながらそれに倣う。冷徹な目がチロを見下ろしていた。

「どなたから、何をお聞きになったのです?」

「いえ、何も。ケガでお辞めになったとしか。ヨエル様があのご様子なので、てっきりケンカでもなさったのかと思っただけです」

「…………そうですか」

バルドゥの短い了承は、感情を読みとらせない平板なものだった。

「ヨエル様はなぜあんな風に振るまわれるんですか?」

「さあ。我々のような者には分かりません。関わるなと命じられれば、そうするまでです。あなたもそうなさる方がよろしいでしょう。さあ、あの突き当りがあなたのお部屋です」

バルドゥは廊下の端を指さして、ふたたび歩き始めた。

こうして、チロの奇妙な側仕え生活が始まった。リスコー家では、主のためにこなすべきこととして両手で数えられないほどの仕事を教え込まれたが、ここではほんのいくつかしか使わない。

一つ、着替えの手伝いをすること。一つ、朝夕の礼拝のお伴をすること。一つ、食事とお茶の時の給仕をすること。一つ、湯浴みの準備をすること。一つ、翌日の服を選んでおくこと。

ヨエルはチロが起こすまでもなく、夜明け前に自分で起きるのだった。着替えもほとんど自分でしてしまい、袖をつけるとか、どうしても手がいるところだけチロにさせる。朝食と夕食の前に礼拝に行くが、これもヨエルが

「来るな」

というのを、無理矢理についていくことにしたものだ。

ヨエルはめったにチロに話しかけなかったし、仕事ぶりに文句を言うこともしなかった。脚のせいなのか、礼拝のほかに外出もしない。人が訪ねてくることもない。バルドゥが言ったように割り切ってしまえば、楽だとさえ言えた。これなら、ぐずる弟を寝かしつける方が難しいと言ってもいいくらいだ、とチロは思った。

前任者がだれだったのか、名前すら聞いていないけれど、戻るのを嫌がるほどの何があるとも思えなかった。ただ、異様に感じるとすれば、ヨエルとそれ以外の間におそろしいほどの亀裂があることだけで。

そしてその亀裂に、チロは覚えがあるのだった。