たがため 2

はじめて王の都プソムが見えた時、びっしりと丘をうめつくした建物の群れを見て、チロは驚きの声を上げた。

チロが育ったボーロイクの牧は、領地のほとんどが馬を放しておく草地か手つかずの森、そうでなければ麦畑や果樹園だ。隣の家と軒を接するなんてケンカの種になりかねない家の建て方は、する必要もない。

それに引きかえ、王都というものは。色とりどりの屋根の、家とも思えない背の高いかたまりが蝟集する谷間に、道という道から引きもきらずに人や馬車らしいものが出入りしている。チロにとって、目を平手でなぐられるような光景だった。

「驚いたかね?」

同じ馬車で王都の屋敷へ向かっていたイポルトが笑いをふくんだ声でたずねた。

「はい」

チロは窓に張りついたまま正直に答える。

「中心の大きな建物が王の館だ。そのすぐ西に、四つの鐘楼のある建物が見えるだろう?」

たしかに、高い塔のようなものが正方形に配された敷地があった。一つ一つに人が住めるのではないかと思うほど立派なそれを見ながらチロは答える。

「……あれは鐘楼なんですね」

「そうだ。それが神官長の屋敷だよ。君がお仕えする方もそこにいらっしゃる。うちの屋敷は、街の東側だ。屋根が色ガラスになっている塔が見えるかい?イサナバから職人を呼んで、二年がかりで造らせたものなんだ。夏はともかく、春や秋にはなかなか良いものだよ」

そう言われて目を東側にうつすと、確かにほかとは光り方の違う塔がある。側面にも色ガラスで模様をつくっているらしいのが、遠目にもわかった。王都に屋敷をかまえるほどの大貴族の屋敷は、壁ひとつ、窓ひとつとして語るところなしには済まないようだ。

チロははっきりと自分が田舎者であることを意識した。衣服に何にも使わないリボンやフリルがついていることぐらい、序の口だったのだ。

「本当に、僕なんかで勤まるでしょうか」

チロはため息をつきながら、背もたれに体をあずける。馬の歩みにあわせてがたがたと揺れるのが、ありがたいくらいだった。

「必要なことは教えたし、君は良い生徒だったよ。安心したまえ」

イポルトはそう言って、なにかを懐かしむように微笑んだ。一月のあいだ師としてあおいだ相手にそう言われれば、チロとてすこしは慰められなくもない。

「我々は君のその素直さに望みをかけているんだ」

「はあ……」

あいまいに返しながら、チロは窓の外へまた目をやった。これからあの街へ入っていくのだと思うと、なにか得体のしれない生き物の腹中へのみこまれていくような、漠然とした恐れを感じていた。

しばらく王都を引き回してもらった後、ついにその日はやってきた。チロはリスコー家の当主に連れられて神官長の屋敷へ行き、そこで神官長のエンリにゆだねられた。

エンリは初老の男性で、見るからに冷たい目をしていた。金襴の華麗な上衣はひだをたっぷりと取ってあり、体型をすっかり覆い隠していたけれど、わずかに見える首や顔かたちから、間違っても太ってはいないことが察せられた。あいさつの声はまったく親しみを感じさせず、口元すらにこりともしない。この国にある諸神殿をたばね、平和と繁栄のかぎを握る人物がこのようなよそよそしさをもっているとは、チロは思っていなかった。

チロのそんなとまどいなど全くかまわず、エンリはチロを家令や使用人たちに引き合わせると、とんでもないことを言い放った。

「ヨエル様はここではなく、梧桐館で過ごしておられる。私は出入りを禁じられているから、君一人で行ってくれ」

「え?」

思わずすっとんきょうな声をあげたチロを、エンリは軽蔑しきった目で見降ろした。まるでこれまで、澄ました

「はい」という返事以外は聞いたことがなかったかのように。

「君が来ることは伝えてある。足りないものがあればそこのバルドゥに言えば良い。バルドゥ、頼んだぞ。では、私は忙しいので失礼する」

エンリは引き止める間もなくきびすを返した。チロはあまりのことに、呆然とその背を見送るしかない。

助けを求めるようにバルドゥと呼ばれた家令を見る。

助けは期待できない、というのが、直感的な結論で、真実だった。

梧桐館は、本館とはまったく別棟だった。そもそも、本館からは見えないのだ。本館から見ると、舟遊びができそうな大きな池の向こう岸に、注意深く整えられた林があり、その中に梧桐館が隠されている。

尖塔も持たない二階建ての館は、大きさでいえばチロの屋敷に似ていた。ただしその壁は最高級の白石だったし、出入り口やまぐさ石には、使われた石材の一つだけでも馬が数頭買えそうな色石や彫刻が使われていた。しかし派手さはなく、ふりかかる木漏れ日がもっとも美しい装飾と思わせるような、静かなたたずまいだった。

バルドゥに案内されて、チロは梧桐館の主がふだん過ごしている

「剣の間」に足を踏み入れた。

館の二階にある部屋は、大きく切られた窓が壁に並んでいて、明るかった。葉を広げた梧桐の枝の向こうから、かすかに池の水面がきらめきを送っている。広い部屋の奥、暖炉の上には、おそらく名前の由来となった剣が数振り飾られていた。

部屋の主は、窓際に置かれた寝椅子に横になって本を読んでいたようだった。

チロたちが近づいていくと、面倒くさそうに本から目を上げた。

チロはその時まで、自分の母を美しいと思っていた。父は母に詩をささげるとき、

「我が家の花の女王」と言ったし、それが大げさだと思ったことはなかった。けれど、違ったのだ。花とは、ヒースやスズランのことだった。それが美しくないとは言わないが、美しさのすべてとは絶対に言えないことを、チロは初めて知った。

ヨエルは、水晶から彫り出したような少年だった。肩にやわらかくかかるのはプラチナ・ブロンドで、目の色を陰らせるほど長いまつ毛も同じ色をしていた。投げ出していた長い脚を床におろして身を起こすだけでも、視線をひきつけられてしまう。

「今日からお仕えするチロ・ディ・ボーロイク殿をお連れしました」

無言で問われたバルドゥが、そう言ってチロの背中に手を添える。ヨエルがチロをさっと眺めた。そして、

「犬みたいな名だな」

一言。

心の底からひそめられた眉と、震えそうなほどの嫌悪感にいろどられた声を聞いて、チロの自己紹介はのどの奥に引っ込んでしまった。