たがため 1

あざやかな夕空の下で、ただただ広い草原を、馬の群れが駆けていく。遠くからながめていると、栗色の群れが伸び縮みしながら動いていくさまは、まるで一つの生き物のようだ。風とならんで走る馬たちは、やがて丘を越えていった。丘の向こうで、放牧地の緑はやがて糸杉の黒々とした森にのみこまれている。

草原の中に建てられた館の前で、自分の馬の上からそれを見送っていた少年は、くちびるに微笑みをうかべて門をくぐった。彼は、馬の群れが駆けているところを見るのが好きだ。あの馬は、すべて彼の家が育てている王家の馬たちだった。首も脚も短く、ほとんどが栗毛に黒いたてがみで、あまり見栄えはしないけれど、その脚は強く、筋肉の躍動させて走る姿は堂々としてもので、音までも他より大きく聞こえるほどだ。

「ご機嫌ですね、チロ坊ちゃん?」

中庭に入ったところで、出迎えに来た家僕のヘスが声をかけた。そろそろ初老にさしかかる男で、チロが小さいころからこの家に仕えてくれている。

「うん。門の外から馬の群れが見えたんだ。崩れてた斜面も何とかなったし、今日はいい日だったよ」

チロはふんわりと笑って、差し出された手に手綱を渡しながら答える。やさしい顔立ちのチロが笑うと、幸せな思いがこぼれるように伝わるので、まわりはいつも釣られて微笑まずにいられない。

「良うございましたね。さあ、早く手を洗って、その服を着替えてください。もうすぐ夕飯の支度がととのいますから」

ヘスも微笑みを返して、チロの愛馬を厩へ引いていった。厨房のあるあたりの煙突から煙があがり、肉をあぶる香ばしいにおいが流れてきている。チロは空腹に押されて、小走りに館の中へ入った。

チロの家柄を表すのに、小貴族というほどぴったりな言葉はなかった。毎日人を招いて饗応したり、将来の妻や娘に真珠の粉で化粧させるような生活は望めないけれど、領内の住民からはそれなりの尊敬を受けていたし、冬の燃料を心配したことはない。秋が深まれば居間の暖炉には心地よく火が入り、子供たちが小腹をすかせて厨房へいけば、パンやお菓子をつまませてもらえた。

しかし、その生活はいま、おびやかされている。

夕食のあと、チロの父が書斎にチロを呼び出して苦々しく切り出したのは、そういう話しだった。要するに、馬が売れないので、このままでは生活がたち行かなくなるという。

明るい性格のチロでも、良い一日のしめくくりがそんな話しだと、眉をひそめてため息をつきたくなる。

自分の家の置かれた状況がかなり苦しいものであることは、チロにもよく分かっていた。無軌道な祖父がめちゃくちゃにしてしまったものを、父があえぎながら修復していることも。特に、累代の相棒としてきた厩舎長の一族と決別してしまってからというもの、ボーロイクの仔馬の評価は下がる一方だった。ただでさえ、慣習でなんとか守られてきたものを。

「今は、すらりと細くて長い脚だの、月光のようなたてがみだの、見た目だけのくだらない馬ばかりがもてはやされているが、馬とはそういうものではない。分かるだろう?我々が育てているのは軍馬だ。その中の王だ。眼前にせまる槍のふすまを臆せず踏み越えていく勇敢な悍馬こそがもっとも優れた馬なのだ。王だけはそれを分かっておられる。われらが今も昔と変わらぬ真の忠誠をささげることを信じてくださっている。われわれは王の≪最上の馬≫だ。王の牧と、その馬の血統をまもらねばならない」

ボーロイク家の当主は、書斎をうろつきながらくだくだとしゃべり続けていた。薄暗い正方形の書斎の角を、几帳面にたどっていく。その足取りは引きずるようで、そのまま朝まで歩き続けたら書斎のじゅうたんが擦り切れてしまいそうだった。まだ四十の声は聞かないが、苦労をつづけたせいか、その髪には白いものが混ざっている。

「何かあったんですか?」

チロが穏やかに口をはさむと、ボーロイク家の当主は、息子の前で立ち止まった。束の間、その姿をたしかめるようにじっと見つめる。

とくに吹聴して回ったつもりはないが、チロはいつでも彼の自慢の息子だった。丸い顔をとりまく亜麻色の髪と、優しげな目鼻立ちは母譲りだ。体つきはひょろりとして頼りないけれど、牧の仕事を手伝っているので体力はあるし、いざとなれば狼にも向かっていく勇気がある。

十五年近くも前のこと、その母との結婚披露宴にあつまった人々は、くちぐちに彼のことをとんでもない果報者だと言いそやしたものだ。ボーロイク家など鼻であしらわれかねない家柄の、近隣で一番の器量良しといわれた彼女を射止めたときが、彼の人生の絶頂だったのかもしれなかった。あとは下っていくだけ。

感傷からたち戻って、ボーロイク家の当主がその一言を吐き出した。

「……リスコー様に着いてプソムへ行ってくれないか」

予想外の言葉に、チロはあんぐりと口を開けた。

「プソムって、王宮ですか?!」

「そうなるだろうな。さる高貴な方のおそばで身の回りのお世話をする少年を探していらっしゃるそうなんだ。どこからかお前のことがお耳に入ったようでな」

ボーロイク家の当主は、チロの目を見なかった。事情を説明しながら、また部屋の中を往復しはじめる。

「いったいどんな条件で……」

リスコーといえば、王の側近の一人といわれている実力者だ。何がどう「お耳に入った」のかは分からなくとも、断るという選択肢がないことはチロにも分かった。

「アレジアから良い牡馬を十頭と、厩舎長をあっせんしてくださる。それから、望むなら弟たちも、どこか良い家へ行儀見習いに行けるように手配してくださるそうだ。縁故があれば、切り抜けられる難局も多い……」

言いづらそうに、当主は答えた。チロはますます目を丸くする。ボーロイク家にとっては、飛びつきたいほど良い条件だ。

「待ってください、こちらが支払うものについて聞いたつもりだったんですけど」

「お前だ」

手短な答えだった。チロは少し考えて、ふと、思い当たる。

「……変な趣味があるとか?」

「そうではない。そうではないが……難しいお方なのだそうだ。過去にも何人か、これはと思う者をつけたものの、続かなかったらしい。それに、これは推測だが、かなり身分の高いお方だろうと思う。リスコー様がお名前を明かされなかったからな」

「僕がリスコー様についていけば、今の問題は解決だし、これからも家は安泰っていうことですね。そんな都合のいい話しがあるんですか?」

「無事に勤められればな。プソムの外とはしばらく連絡すら取れなくなる。それから……命を落とすかもしれないと言われた」

父の声が震えた。チロはその優しさに微笑む。たとえチロが死んだとしても、ボーロイク家には弟がまだ二人いる。上の弟とは一つしか違わないし、跡取りについては何も心配はないのだ。それよりは、弟たちのためにしてやれることがあるのが、チロには嬉しかった。

「僕は、やります。喜んで。断ったら、あとは家族みんなで乞食になるしか無いかもしれないんだし」

明るく答えたチロを、ボーロイク家の当主はちいさな子供にするように抱きしめた。

「ありがとう。お前ならうまくやれると信じているよ。ふがいない父で済まない」

チロは「父さんの息子だから当然だよ」と答えて、抱擁を返した。

「ミーミラ婆さんとだってやっていけるんだから、大抵の人は大丈夫でしょう?」

カミナリ袋との異名をとっている近所の老婦人の名前を出して、チロはいたずらっぽく笑った。ボーロイク家の当主は、かすかに苦笑を漏らした。

しばらくして、チロはリスコー家に招かれる形で家を出た。支度はすべてリスコー家が整えてくれることになっていて、物が揃うのを待つ一月ほどを、宮廷での作法や、そこに集う人々のことを仕込んでもらって過ごした。

ボーロイクの牧を、それほど長く離れたのはチロにとって初めてのことだった。家で弟たちと石の陣取りゲームをしたり、父が母に詩をささげるのを聞いたりする家族の夕べがなつかしくなった。ここには、そういったものはない。ただひたすら、領地のことや、だれかの縁談のことが話されるばかりで、チロにはとても寂しいところに思えた。

教師役をしてくれていたイポルト・リスコーは、ひとしきり王宮に出入りする重要人物の名前と肩書を説明した後で、ひょいと肩をすくめた

「とはいえ、社交界の知識がそれほど必要とも思わないがね」

「なぜですか?」とチロは問う。

「チロがお仕えする方は、かなり特殊な地位にいるお方なんだ。表立って行事に参加されることはあまりない……というより、皆無といっていい。君がダンスを二種類しか踊れなくても、全く問題ないだろうね」

からかうように言われて、チロは鼻にしわを寄せる。

「僕には十種類もある意味が分かりませんよ」

「馬と踊れるなら別か」

「考えます。ところで、僕がお仕えするのはどなたなんですか?いい加減教えていただかないと、本人の前でお名前を間違いそうです」

「それは困るな。……手紙などにはくれぐれも書くなよ。君がお仕えするのは、ヨエル・アン=グラーニャ様だ。王の十二番目のお子で、こんど十六歳におなりだ」

なんとなく察していたとはいえ、相手が王子と聞いたチロは、さすがに緊張で手をにぎりしめた。

「どうして……そんな方に、僕みたいな側仕えをつけることになったんですか?自分で言うのもなんですけど、僕の家はそれほど良い家とは言えないし、その、行儀作法もこんなにわか仕込みなのに」

チロが問うと、イポルトは軽くため息をついた。

「難しいお方なのだ」

と、父と同じことを言って、窓の外へ視線を逃がす。リスコー家の中庭は、秋に染まろうとしていた。盛りを過ぎた花を、庭師がせっせと摘み取っている。

「ヨエル様は、七つの年に斎の君として選ばれて、神官長の養子となられた。そのお立場ゆえ、心を許せるような相手も少なく、だんだんと塞ぎ込むようになってしまったんだ」

「塞ぎ込む、というと、部屋に閉じこもったりですか?」

「いや、そうではない。もともと静かな方ではあるがね。とにかく、会えばわかるだろう。しかしな……」

イポルトはちらりとチロに目をやり、眉尻をさげてため息をついた。

「しかし、どうしたんですか?」

チロが尋ねる。

「本当は言うなと言われているんだが……伝えないのも気の毒だから、やはり教えておこう」

イポルトはさっと周囲をみわたして、あたりに人の気配がないのを確かめてから、声をひそめて話し始めた。

「君が疑問に思ったように、本来ならばこの役はもっと良い家の、しかるべき子弟から選ばれるはずのものだ。それに、なぜ今、と思うだろう?」

チロはうなずく。養子に出されたといっても、未来のことなど誰にもわからない。王子の側仕えであれば、一生の友として深い結びつきを持つことだって希ではないのだから、それなりの家格の者でかためるのが習いになっている。

「最初はもちろん、そうだった。実は、ヨエル様の側仕えはこれまでに四度、変わっているんだ」

その数に、チロは驚かざるを得なかった。彼が面くらっているのを見て、イポルトは気が咎めたように微笑んだ。

「……どうもヨエル様は側仕えに当たられることがあるようで、最初の者は嫌がって辞めてしまったんだ。次の者は、ヨエル様が耐えられないと言って辞めさせた。次の者は、途中で病気にかかったために家に帰された。次の者は、怪我をしたので実家に帰らせたが、勤めに戻るのを嫌がっていてな。だれもかれも、詳しくは語らないが、よほどのことがあったのだろう」

イポルトの手が、ぽんとチロの肩をつかむ。

「これまでの者たちは、いずれも下にも置かれぬ名家の子息だった。そもそも、従者として人に仕えるには気位が高すぎたのだろうよ。その点、君は安心だ。うまくやってくれると信じているよ」

そういわれても、チロは不安がつのるばかりだったけれど、なんとか微笑みを返そうとした。

「辛抱することだ。なに、そう長いことではないさ」

いったい何が待ち受けているのかに気を取られて、チロは最後の一言をあっさりと聞き逃してしまっていた。