花と風の庭

風の音がしていた。

ロケットが飛んで行くようなとどろきを巻き起こして、針葉樹の梢を渡っていく。青い夕暮れの中に、寝坊月と雲の頭だけがほの白く浮き立っていた。

ペンキのはげかけた歩道橋の下を、ニ、三台の車がゆっくり通って行った。黒く雨の筋が付いたビルの足元には、小さな花が花弁を早々とすぼめて風に揺れている。

このあたりもずいぶん賑やかになったけれど、まだまだ田舎らしさが残っているものだ。

美奈子は澄みとおった空を見上げながら、歩道橋を渡っていた。両手で抱えている通学カバンが教科書と宿題のプリントで重いせいもあって、足取りはペタペタと不器用だ。本人は気づいていないけれど、口は半分あいたままだった。

歩道橋は良い。少し階段を上っただけなのに、視界が開けて、すごく高いところに着たような気分になれる。

折から吹いていた風が美奈子のスカートを派手に吹き上げた。美奈子は慌てて左手を後ろにやる。足元が見やすいようにカバンを持ち直して、彼女は足早に階段を下りた。

――さまにならないなぁ。

ちょっと恨みがましく振り返って、誰も見ていなかったことを確かめてから、美奈子は溜め息をついた。

歩きにくいローファーで重いカバンを持ち持ち、三十分の道のりを歩いて帰るのには、ちょっとした訳がある。

美奈子の班はその週の掃除当番だった。たまたま、燃えるゴミだけが溜まっていた。そしてたまたま、美奈子はジャンケンに負けてしまった。

ゴミ捨て場は校舎の裏にある。一年生の教室は三階で、しかも美奈子の教室は一番奥だった。だから、新しいビニール袋を手に戻った頃には、廊下は橙色の陽だまりがあるばかりだった。

開けっ放しになった窓から校庭の賑やかさが漏れ聞こえていたけれど、たった一枚のガラスの厚みがなんだかやけに遠い。背中を押されるように早足で角を曲がると、教室の前に担任の先生と日直の男の子が立っていた。

教室のすぐ外の壁に並んだロッカーの前には、美奈子のカバンが出してある。薄情にも、他の掃除当番はみんな帰ってしまったらしかった。

「ご苦労さん」

担任のおじさん先生がにこにこ笑いながら言った。美奈子は小さな声でいえ、とかはい、とか、そんな曖昧なことを答えて掃除用具入れに飛びついた。そこにビニールを突っ込んで、ゴミ捨ては完了だ。

「今年の一年生はみんな外が好きなんだなぁ。すーぐ教室からいなくなって」

「六時間も詰め込まれてたらもう充分っすよ」

日誌を書きながら、日直の男の子が先生とそんなことを話していた。美奈子はそれを横目に、自分のロッカーを開けてさっさと靴を履き替える。

「青山ぁ、ロッカーはきれいにしてるか?」

ふと先生が彼女に尋ねた。

「え?あ、はい」

美奈子はほとんど荷物の入っていないロッカーを確かめながら、冴えない返事をしてしまう。先生はまた愛想良く笑った。

「いつもきれいにしとけよ。開けると雪崩が起こるから開けないなんて奴もそのうち出て来るんだ」

美奈子は適当に笑う以外、どう答えると良いのか考え付かない。彼女はけっきょく二人の談笑に入れないまま、短くさよならだけ言って学校を出た。

少しは期待して昇降口に行ったけれど、誰も待っていてくれなかった。美奈子は打ちひしがれた気分でバス停に向かう。

美奈子の学校は街の中心からかなり離れていて、たいていの生徒は電車とバスを乗り継いで通っている。バスを待つ生徒たちの長い列は、校門の近くまで来ていた。たぶん次のには乗れないだろう。

満員のバスに乗れるような気分ではなった。かと言って、電車の駅までの道は知らない。美奈子は心の中で深く溜め息をついて列の最後尾についた。

しばらくして、塀にもたれていた彼女の前を一人の少女がさっと横切って行った。ショートカットで背が高く、ダサいセーラー服すら着こなすその姿は、いつものように美奈子の目を引いた。

隣のクラス、でも名前は知らない。

たぶんこの時期、同じクラスの人でなければみんなそう。

入学して間もなかったけれど、美奈子は彼女が一人で何もせずにいるところを何度か見かけていた。美奈子なら、所在なくて俯いてしまう。居心地悪くて、見知った誰かを探さずにいられない。けれど彼女は一人でも、くつろいだ感じだった。

誰かと一緒にいることもあった。その時は、笑っていた。彼女は「浮いてる」とか、そういうのではないのだ。強いて言うなら、「浮かんでいる」のだ。

彼女は歩いて帰るらしかった。自信に満ちた歩き方に引っぱられるように、美奈子は列から抜け出した。

美奈子は半丁ほど遅れて彼女に付いて行った。駅までの道を知るためとはいえ、いつ気付かれるかと思うとドキドキした。申し訳なくて、彼女の靴下より上が見られなかったくらいだ。

彼女は太い道路を離れ、美奈子に気付くこともなく、人工衛星が計算された軌道を精確にたどるように、住宅街の細い道を歩いていった。

そして、学校から二十分ほど歩いて来たとき。

ふわりと甘い香りが美奈子の頬をかすめた。美奈子は思わずその源を探す。しかしそれは本当に一瞬のことで。

その間に、先を歩いていた彼女は曲がり角に建っている白い家に入って行ってしまった。

美奈子は呆然とした。足だけは、恐れに負けてペースを変えずに前に進んだ。

彼女の家の角を曲がると、広い庭が見えた。その庭を渡ってきた風から、甘い香りがする。

大きな沈丁花の木が、今を盛りと花を咲かせていた。きっとあの香りは、花の芯の白さから匂っているのだろう。そんな色をしていた。

彼女の庭は、木と草の生い茂った美しいところだった。しんと暮れて行く空気の中で、群れ咲く花が星のように光っていた。

その後、美奈子は勘を頼りに歩き回って、駅にたどり着くのにたっぷり一時間半かかった。足は疲れて文字通り棒のようだったし、背骨が詰まってしまったような感じがして、とにかくヘトヘトになった。歩いている間は暗くて怖かったし、寒くて不安だった。

けれどそれ以来、花の咲くあいだは時々遠回りをして、彼女の家の庭を見るのが美奈子の密かな楽しみになった。あまり頻繁に行くわけにはいかないから、他の家の庭を見て機を見計らう。おかげで学校の近くの庭にある木なら、何の木がいつ頃に咲くのかすっかり頭に入ってしまった。

学校生活で、美奈子は彼女とはほとんど接点を持たずに過ごした。だって、面と向かってなんと言ったらいいのだろう。憧れていました?失笑する彼女の顔が見えるようだった。

彼女が教室の窓辺で読んでいた本。制服の襟元にかっこ良く収まった白いリボン。美奈子には半分くらい宇宙語に聞こえる友達との会話。一人でいるときの静かな顔。

ふと目にしてきた彼女のことを、美奈子はなぜか大事に覚えている。友愛でも、ましてや恋でもなくて、美奈子はあの月を眺めるように彼女が好きなのだった。

美奈子は彼女とはまったく違うグループに落ち着いた。一人になるのは、こっそり庭を見に行くときだけだ。彼女のように自由に浮き上がって、好きなときにまた戻るような、器用なことは美奈子にはできないから。

ただ、適当な理由をつけて友達を先に帰すときだけは、ほんの少しだけ誇らしいような気分になった。一人になるのは大嫌いで、心のどこかは怖がっているのに、そんな風に思えるのは彼女のおかげだった。

最後のクラス分けでも同じクラスにはなれそうもない。彼女は理系で、美奈子は文系だ。このまま、何の接点もなく終わるのだろう。少しさびしいけれど、美奈子は納得することにしていた。

風が香る。緑と土の匂いだ。

あたたかい南風だった。木々を騒がせて、まだ温もりきらない場所へ、渦巻くように吹いてくる。白い月のたもとから空が流れ込んでくるような、春の夕暮れだった。

ぺたぺたと歩き続ける美奈子の目に、彼女の家が見えてきた。美奈子は少し緊張する。角を曲がるとき、彼女の部屋の前を通るのだ。ツゲの木の生垣があるけれど、充分に視界を遮ってくれない。

今日は、彼女はいなかった。美奈子はほっとして角を曲がった。窓辺に彼女の姿があると、手に冷や汗を握ってしまう。

今はカイドウの季節だ。強風にまかれて、桜に似た薄桃色の花びらが舞っている。若葉の奥で慎ましく笑み始めた五葉ツツジの向こうに、カイドウの若木が枝いっぱいの花を咲かせていた。そのさらに向こうには、ユキヤナギがそのまま冠にできそうな可憐な花枝を空へ伸べている。地面はオサラコバナでこんもりと覆われていた。花という花が咲いている。

しかし、美奈子はそんな庭よりも、別のものに目を奪われた。振り向いた顔と目が合う。羽織っただけの白いカーディガンがはためいて、今しも降り立った鳥の羽のようだった。

彼女のちょっと驚いたような表情を見て、美奈子の顔が熱くなる。いるなんて思わなかったから、言い逃れようもなく庭を覗き込んでしまっていた。もう終わりだった。二度とここへは来られない。

――変な子だと思われた。

美奈子は走って逃げようと思った。その瞬間、彼女が笑った。

「花信風だ」

彼女はからかうように言った。美奈子はきょとんとして、その場に立ち止まる。彼女の髪をかき乱した風が美奈子のところにも吹きつけて、バサバサと紺色のスカートを揺らした。

「花が咲くと来るね」

美奈子がぼうっとしている間に、彼女はそう続けた。

美奈子はたっぷり十秒もしてからやっと我に返った。花信風――花の開花を告げる風。つまり、彼女は美奈子が花のころを目がけてここへ来ているのを知っていたということだ。

「ご、ごめんね」

耳まで真っ赤になって、美奈子はつぶやいた。情けない声が頭蓋骨にこもる。それでさらに顔が赤くなった。

「ちょっと持ってきなよ。ハサミ取ってくるから待ってて」

「い、いいよ!切らないで。帰るし」

美奈子は首と手を同時に振りながら、後ずさる。彼女の顔なんて見られなかった。

「ふうん。じゃ、また見においでよ」

さらっと、彼女が言った。

美奈子はなんとか挨拶らしい声を出して、俯いたままズンズン歩き出した。

叫びだしたいくらい、胸がどきどきしていた。

思い切って顔を上げると、優しく白い月が地球を見ていた。

まるで飛んでいるかのように、美奈子の耳元で風が鳴っていた。

春祭り参加作品。使用お題:予感 花信風 春宵 結ぶ きっかけ 春の嵐